「教育解放研究会」資料集




一般に共同体といえば理念と世界観を共有するまじめな集団であると考える。しかしながら厳格さとまじめさは共同体の致命的な弱点である。そういう共同体は内部的には位階が作動するようになり、外部に対しては境界が鮮明で停滞するほかないからだ。どんな種類であろうと、どんな記憶をもっていようと私はコミューンが生きて動こうと思うなら「ユーモラス」でなければならないと思うのである。笑いこそが日常の祝祭を作り出す基礎であり、コミューンの原動力であるからだ。(「ノマディズムと知識人共同体のビジョン」『歩きながら問う』)
私たちを疲弊させているのは伝達の妨害ではなく、なんの興味もよばない文なのです。ところが、いわゆる意味というものは、文がよびさます興味のことにほかならない。それ以外に意味の定義はありえないし、この定義自体、文の新しさと一体化している。何時間もつづけて人の話を聞いてみても、まったく興味がもてない……。だからこそ議論をすることが困難になるわけだし、またけっして議論などしてはならないことにもなるのです。まさか相手に面と向かって「君の話は面白くもなんともない」とは言えませんからね。「それは間違っている」と言うのなら許されるでしょう。しかし人の話はけっして間違っていないのです。間違っているのではなくて、愚劣であるか、なんの重要性ももたないだけなのです。重要性がないのはさんざん言い古されたものだからにほかならない。
(中略)
そして哲学とは、厳密な意味で、議論とは何のかかわりももたないものなのです。誰かが問題を提起するとき、その問題はどのようなものなのか、そして問題はどのようなかたちで提起されているのかを理解するだけでもいいかげん苦労させられているのですから、その問題を豊かなものにするだけでいいのです。問題の条件に変化をつけ、補足し、つなぎ合わせることが求められているのであって、けっして議論をしてはならないのです。(ジル・ドゥルーズ『記号と事件』P.217 P.233 河出書房新社 1992)
日本の教師は現実の政治の問題、社会の問題ととりくみ、権力とたたかわなければならない。それと同時に教師は子どもを教えなければならない。子どもを育てなければならない。その子どもを教える教師は一方において、おとなとして現実の問題とたたかいながら、他方においては子どもを未来社会をにないうるような子どもにつくっていかなければならないのであります。私たちが現時点における問題を非常に厳しく具体的に考えるということと、その問題意識を子どもたちに直接ぶつけるということとは、別のことでなければならない。その点が教育のむずかしさであります。………学校教育についていえば、子どもがおとなになるまでは、子どもたちにいろいろの点で心配をさせたり、迷惑をかけたりしないという気持ちがたいせつではあるまいか。その気持ちにもとづいて行動していくならば、学校教育の中身のなかにアクチュアルな問題がなまのままもちこまれるということはないのではないか。それよりも、十年さき、二十年さき、三十年さきのことを考えて、そのような社会において子どもがりっぱに生きうる能力と見識と感情をもてるように、という考え方に立って教育していかなければならないのではないか。(「民主主義教育の世界史的自覚」)
ひとつは国家権力のフィルターをくぐって、もうひとつには専門家(権力)のフィルターをとおって、近代の文化総体のなかからある知識を抽出して再組織・パッケージ化しているものであることはまちがいありません。無限に貯えられている知からあるものを選んで、認識的秩序を整えるのですが、そこにはあるパラダイムが内在・機能しているはずです。(『部落解放教育論』1982)
学校において何でも測定するように教育されてきた人びとは、測定できない経験を見逃してしまう。彼らにとって測定できないものは第二義的となり、彼らを脅かすものとなる。彼らは今さら創造性を奪われる必要はない。彼らは教授活動の下で、自分のなすべきことを「する」(do)ということや、本来の彼らに「なる」(be)ということを忘れてしまい、つくられたもの、あるいはつくり得るものだけを、価値があると考えるようになっているのであるから。(『脱学校の社会』1970)
学校から家庭、組合から裁判所へと、近代の制度はどれもみな、稀少性=欠如性の前提と合体し、その結果、その前提を構成する単一の性の公準を社会のいたるところにまきちらす。たとえば、男と女はつねに成人しつつあるわけだが、今日では成人するためには〈教育〉が必要である。伝統的な社会では、希少=欠如であると知覚されるよな成長の条件などなくても大人になっている。だが、教育上の諸制度はいまやこう語る。のぞましい学習と能力こそが、男と女が一人前になるために必要な希少=欠如財なのだ、と。こうして教育とは稀少性=欠如性の前提のもとにある生活のあり方の学習を指すものに変わっている。しかし、現代の典型的ニーズの一例とみなされる教育は、それ以上のものを含意している。すなわち教育はジェンダー不在の価値が欠如していることを想定している。教育はいまやこう語る、教育のはたらきを経験する彼/彼女は、もともとジェンダー不在の教育を必要とするひとりの人間なのだ、と。
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20年以上前の自分の文章を読んでいると、複雑な気持ちが交差します。視野の狭いところとか、いろいろいい加減なところが気になるのですが、なによりもこのときに自分がつかまえたと考えていた問題領域が、今でも、私自身の課題として居座っているせいで、荷物を抱えたままの気分なのかと気がつくのです。問題を提起したらそれで何かした気分でいられた時代だったので、これを書いたときはかなり爽快だった記憶があります。竹内良知先生は、何でも近代知のせいにする私の議論をきっちり批判されていましたが、そのときはわからなかったですね。先生はさまざまな学校批判は、その多くは当たっているけれど、「出口」が見つからないのだ、という意味のことをおっしゃっていました。そういう指摘も20年以上前に聞いたのですが、その意味がやっと理解できるようになったのはこのごろです。
この「出口」の話をしていてではないのですが、先生と歩きながらたまたまスピノザの話になったことがありました。大学時代から私はそれなりに関心を持っていましたので少し質問しただけで、スピノチストでもある先生のお話にはとてもついていけませんでした。それでもそのときだったか、はっきり覚えていませんが、ネグリのスピノザ研究『野生のアノマリー』のことを高く評価されていました。1981年に刊行された本ですが、もちろんそのころはまだ翻訳などありませんから、私は読むすべがなかったのですが、翻訳が出たら読もうとそのとき思ったのでした。
今、『野生のアノマリー』(作品社 2008 杉村・信友 訳)を翻訳で読んでいますが、細部までなかなか難解でわからないところだらけなのですが、スピノザが「もうひとつに近代」を切り開いた戦闘的哲学者であることは確認できます。学校教育批判の「出口なき批判」を超えるものを竹内良知先生はスピノザにみられていて、私にスピノザの話をしたのかもしれないなと、今頃気がついています。
33年間教員をやってきた総括をやっとできるスタートに立てた気がします。亀のような歩みでしかないでしょうが、自分が納得がいくようなところまでは行きたいと考えています。
娯楽として排斥されていた芸術を、正当に教育コースに取り入れた代償は、芸術を教養として、生活の余剰部分として見る傾向を生じたことである。娯楽として排斥される運命を免れることによって、今度は、茶の湯や生け花と同様の、一種のたしなみとして理解されるよううになった。……教養主義は文学精神とは反対のものである。教養主義に陥ることは、文学の本質的理解を妨げる先入主によって目隠しされることなので、文学への開眼にとって逆効果である。せっかく文学教育を人間形成の不可欠の要素として取り入れながら、そのために、この逆効果を招いたのでは何にもならない。それくらいなら、はじめから教育コースの外に放任しておいたほうがいいのである。(「人間・芸術・教育」1952)
どの子どももがみな、無限に自分を伸ばしていく欲求と可能性とを持っている。そういう可能性を実現させてやることこそが教育であり、専門家としての教師の仕事である。………教師の力によって、子どもはよくも悪くもなるし、どの子どもからも無限の可能性を引き出すこともできる。………教育において、子どもの可能性を無限に引き出すということはどういうことなのであろうか。それは1時間1時間の授業を的確にやり、授業のなかで子どもの認識を拡大深化させ、再創造させていくことである。
子どもの認識を拡大深化させ、再創造させるために、いちばん大きな手がかりとなるものは、人類が積み上げてきた文化遺産である。教師はそれをつかい、そのなかにある方則なり、知識なりを、1時間1時間の授業で的確に子どもに伝達し、一つ一つ積み上げていく以外に、子どもの認識を拡大深化させ、再創造させていくことはできない。それ以外に方法はないと私は考えている。よく「イデオロギー」とか「生活をみつめる」とか主張するものがあるが、そういうことで子どもの認識をほんとうに変えていくことができるとは私は思わない。子どもは文化遺産を的確に獲得するすじみちのなかからだけ、自分の認識を拡大深化させ、自分の可能性を十分に発揮することができるのである。(『未来誕生』1960)
子どもの場合は授業がおもな人生経験である。したがって、授業が豊かになり、幅と深さを持って、はじめて子どもも豊かな人生経験をするということになる。授業が追求的になり、創造的・発見的になったとき、そういう人生経験を蓄積することになる。授業のなかで、教材や他の子どもとほんとうの対面をしてはじめて本当の意味での他との対面の仕方、自分との対面の仕方も学びとることができる。子どもにとっては授業は、そういう意味での大切な人生経験の蓄積の場である。(『授業』1963)
権力が教育の〈中立性〉をおかしているとき、教師はそれに対抗して、階級教育の立場に立って教育活動を行うべきだという考え方がある。階級教育……かりにそれを労働者階級としての階級意識を直接に植えつけるための教育と考えれば、教師はそうした意味での階級教育の立場に立つ必要はない。科学と芸術の教育、真実を追究し、人間性を尊重し、平和を守り美しいものを愛する教育を徹底的におしすすめることこそが、教師の勤労者階級層、諸階級に対して直接に負わされた責任である。(日高六郎「政治の責任と教育の責任」1960 『日高六郎教育論集』)
人々自ラ其身ヲ立テ、其産ヲ治メ、其業ヲ昌ニシテ、以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ。身ヲ脩メ智ヲ開キ、才藝ヲ長スルニヨルナリ。而テ其身ヲ脩メ、智ヲ開キ、才藝ヲ長スルハ、學ニアラサレハ能ハス。是レ學校ノ設アル所以ニシテ、日用常行、言語書算ヲ初メ、士官農商百工技藝及ヒ法律政治天文醫療等ニ至ル迄、凡人ノ營ムトコロノ事、學アラサルハナシ。人能ク其才ノアル所ニ應シ、勉勵シテ之ニ從事シ、而シテ後、初テ生ヲ治メ産ヲ興シ、業ヲ昌ニスルヲ得ヘシ。サレハ學問ハ身ヲ立ルノ財本共云ヘキ者ニシテ、人タルモノ誰カ學ハスシテ可ナランヤ。(學事獎勵ニ關スル被仰出書)
教育の社会的分散の問題………これは教育活動を学校という施設の独占とせず、寧ろこれを社会生活の全領域に分散せしめ、組合、会社、工場、その他凡ゆる社会集団の機能たらしめることであって、これ等諸集団の民主化というのは、かかる内容を持つべきである。教育活動をその機能として自覚することなしに、民主化を云々するのは無意味である。教育の社会的分散とは、多くの社会集団が夫々学校という無風帯をその内部に持つことではない。これ等の集団の教育活動は進んでその特有の業務や機能と結びつくべきである。業務や機能との関係に於いて行われる特殊な教育が望ましいのであって、若しそうでなかったら、何も教育の社会的分散を唱える必要はないのである。(『今日の教育』1947)
かえるがひとりでに泳げるように、それから地上を歩けるように、人間の子はひとりでに2本の足で歩けるようになると思う? ならないね。やっぱりそりゃ学習ですね。勉強して、練習して、猛烈に練習してはじめて2本の足で歩けるようになる。猛烈な訓練をやっている。自己訓練をやっているんです。あたりも全部こう立って2本の足で歩くでしょう。だから子どもだってやっぱり自分も2本の足で歩こうとするわけ。それには大変な練習が必要なの。だからそれは学んで初めてできるようになるんですね。(第4回兵庫解放教育研究大会 公開授業記録 1977年 『解放教育』1978.2)
そこでやっともうアマラは死んでしまったんだってことを感じたんでしょう。それを感じた時にカマラの目から、両方の目から涙が一粒ずつこぼれてそれっきり。一粒ずつこぼれただけ。しかし、悲しいという表情はないですね。悲しみの表情はない。しかし悲しんでいることは確かですね。20日の間なんにも食べない。そして、アマラを探して床を、こう、かぎまわっている。最初の一日は水も飲まなかったそうです。水も飲まない。何も食べないでアマラを探し求めていたんですね。それでどうしてもアマラはもう姿が見えない。だからたった一人の仲間がいなくなってしまったことを確認せざるをえないわけです。
-----未来は、絶対的危険という形でしか先取りされ得ない。それは、構成された正常性とは絶対的に縁を切るものであって、それゆえ、一種の畸型としてしか自身を予告し、現前させることができない。
J・デリダ
理論派と実感派との共同作業として、一つ一つの経験や実感をどこまでも尊重し、その経験や実感のなかに理論的な芽を見つけながら、さらにその断片を高次の段階へと結びつける契機を求めていくというような内在的な方法が本筋だと思う。(「具体的経験と理論的抽象----第7次別府集会に参加して」『日高六郎教育論集』1958)
政治的・社会的な「壁」はどのように高かろうとも、やはりそのなかで教師は、日々くりかえし地味な教育実践に取り組まざるをえないのである。しかし、じつはそのような気長なくりかえしのなかに、その「壁」を少しずつ堀くずす作業が含まれているのではないか、また、その気長な作業は、教師が教室の内外で、子どもたちの幸福と人間的成長を願いながら、日々くりかえしている仕事と矛盾しないのではないか。(同前)
「北摂解放教育研究会」の方向転換への提言
1988.5 『教育解放通信』第1号
北爪道夫
1 霧のなかの原点<解放教育>
教師という衣装や、解放教育という帽子やらを取って、ひらたく、生の人間になって、つらつら己のかゆさの所在を考えてみる。どこが痛んでいるのか、どこに疥癬がすくっているのか。確かに<教育>という身体があえいでいる。しかし病巣の所在が見えてこない。教師としての日常の行為が病んだ身体の病巣の一機能に、いつでも回収されてしまう。ふりあげたつもりの手が、<教育>の従順な機能にくり込まれて、敵の手に変身する。ふと気づくと、“有能”な教師という自認あるいは他認のなかで安住している自分がいる。学校を、教育を変えなければ、という原初のエネルギーが自分のどこにあるのかと自問しなければならないところにまで追い込まれている。
“進歩的”教師が戦後一貫していだきつづけてきた教育をめぐる構図は、今もあるだろう。民主教育を守る現場に自分たちが存在し、これに敵対する反動勢力が、たえず民主教育に攻撃をかけてくる、といった構図である。こうした構図は権力を軍事的・政治的にしか見られなくするとともに、“民主教育”の現場や、そこでの自分に対する分析批判視力を弱化させる。
<解放教育>は味方としてくくってきた“民主教育”の内側に敵を発見した。敵は外側にだけあるのではない、敵は内側だ。敵は自分の行為・意識・思想・感性だ。そういう発見が<解放教育>の出発点にあった。その限りで<解放教育>は、民主教育対国家権力という単純構図にゆさぶりをかける射程をはらんでいた。<解放教育>は権力の包括的戦略の外部たりえていた可能性もあっただろう。「北摂解放教育研究会」が、その外部として戦いのエネルギーを結集しえていた時期があったろう。十数年の活動をふりかえって、そう思う。しかし、今は確実にそうではない。北摂解放研に限らない。<解放教育>が権力の外部たりえなくなってしまった。<解放教育>は闘いのエネルギーの結集点、ベースキャンプたりえなくなってしまった。敵は、<解放教育>の毒を、いまや完全に抜き取り終わっている。言いかえれば、<解放教育>によっては、学校を、教育を、社会を、政治を、変革することはできない、ということである。
この敗北の総括ができていないから、“情勢”や実践の“力量”の責任としてお茶をにごしてすましてきた。ただし、<解放教育>と言っているのは、常識的に流通している---明確に言えば部落解放同盟によりそうところの<解放教育>のことである。私の学んできた解放教育、豊かな遺産をのこしてくれたかっての兵庫の解放教育運動のことではない。
情況を明確に言おう。兵庫の解放教育運動から<学校解体>の思想を抜きとって、教育を社会・政治から隔離した中性的営為としてとらえる戦後教育思想と妥協をはかった<解放教育>を、この学校化社会に定着させようとして、それさえ、ままならなくなったのが、現在の<解放教育>である。兵庫解放研が持っていた、教育そのものを権力装置として感受する感性がここにはない。「民主教育-国家権力」の構図を再生させて、「解放教育-国家権力」としゃべっているにすぎない。
しかし、そう言い切ることのためらいの中にいる自分もあるだろう。かって進歩的文化人や左翼が、革命ロシアにたいして感じてきた同伴性を、我々は部落解放同盟に対して一定もってきたし、今も各人に程度の差はあれ、存在するだろう。だが、同盟に対する批判を我々が今もつとき、それは内側からの批判にとどまりえるのだろうか。
そればかりではない。<解放教育>に対する我々の同伴性は複雑たらざるをえない。だが、革命的あるいは進歩的教師の軸に<解放教育>がいまだなり得るのか。そういう反省はあっていい。そういう議論こそ立てられるべきである。自立、自前の運動の伝統を、北摂解放研は誇ってきたはずなのだから。
今や、<解放教育>の看板を検証せずに、我々の研究会は持続しえない。
2 “実践主義”を超えて
教師の現象学とか、教師の文化人類学とかいうのを誰かはじめてくれないかなあと時々思う。奇怪な相貌があらわれてくるに違いないのだ。我々の職場に流通している管理ファシズムとの闘いの武器=理論装置は、いまだゼロにちかい。私の予断と偏見によれば、山本哲士氏などの東京発、反学校・反教育の理論は総じて兵庫の解放教育運動を素通りして理論形成しているかぎり生産性はないだろう。解放教育運動の嫡流たる北摂解放研にこそ、閉塞した教育を解放する理論的・実践的潜勢力があると私は信じている。
しかし、その潜勢力をひきだすために大きな壁があるだろう。<解放教育>の総括をはばんできた壁だ。それは一人一人の中にある“実践主義”のことだ。
教師というのは、“好い生徒”の成長した先の姿だろう。これはよく言われていることだ。だから“出来の悪い”子どもが見えないと。しかし、それだけではない。与えられた秩序の中、あるいはその合理的延長の枠の中でしか思考しないし、行動しない。優等生のパターンである。自分の行為の正当性を常に求める。「私」の行動は、どのような教育的意味を持っているのか、ということを常に考える。「私」のよりどころを既成の秩序(“反体制”の理論もそうだ)にもとめる性向が強い。踏みはずしをしない。説明のつかない飛躍をしない。自分の思考・行為の枠から出ようとする冒険心がない。賭の精神がない。 ところで、論証抜きで言えば、「教育が生まれる元の場所」(鶴見俊輔)というのは、生身の人間と生身の人間の相互飛躍の交流の場だろう。人と人との関係、コミュニケーションの成立の場は賭の精神があって成立する。交通不可能性を突破するのは拒絶を超える精神の賭だろう。合理的・論理的説明にいつでも自分を依拠させようとする教師の性向は、教育の場にある危険な賭、自己飛躍への精神の自由を失いがちになる。自分の実践のパターンから抜けられない。精神の自由さ、軽やかさが無い。解放教育派の教師のからだはガチガチじゃないか、それで何が解放だ、と批判して福地幸造をやりこめたのは、つるまき・さちこだったことを思い出す。
解放教育が、いや教育が衰弱の床にあるとき、新たな闘いを組み立てようとするとき、それは危険な“踏みはずし”を何度も重ねなければならないだろう。そのためにはどんな常識・思想・実践にも特権を与えない自由な批評精神が必要なのだ。
しかし、<解放教育>が自ら総括しえない症状の根は深い。勿論、総括の試みは以前から、各人によってなされてきたろう。しかし共同の総括ができない。衰弱の原因をめぐっての総括が散乱する。ちらばったまま交点が持てない。<解放教育>の理念は健在だという総括もあるだろう。臨終の床なのか、昼寝の余裕なのかもわからない。要するにその判定の場さえ持てない。これこそが衰弱でなくて何であろう。
だが、こうしたわれわれの決定的弱さは、我々の自立、自前性の証明でもあるのだ。党派性に心身をゆだねている者は、情況とは別に、いつでも元気、いつでも同じ総括なのだ。今日の情況は、教師に限らず、我々が自らの位置をはかれないところにある。こうした今日の混迷の核心に、素手のままさらされているからこその衰弱なのだ。北摂解放研を、解放教育を、総括することはしたがって、今日の困難の中心に切り込むことになるのだ。一人一人が黙って私的に総括するのではなく、共同の総括に至ろうとする意志の共有にこそ総括そのものがある。解放教育は党派性ではない。そうであれば、八方に散っている私的総括を出し合い、火花を交わし合う場が成立するはずだ。そこから解放教育は、その思想的実践的遺産を「教育解放運動」に開示してくれるだろう。
誇りうる教育実践を重ねてきたということは、現実を見すえ、それを突破するために、常に武器になるとはいえない。経験が手枷足枷になるということがある。習性に引きずられて、「いま・ここ」が見えなくなることがある。教師として自信を持ってくるということは良いことだ、とばかりは言えない。教師としての成熟によって見えなくなることだってある。自信と成熟は疑うことを忘れさせる。疑うということは、自分の規準にもとづいて、他を疑うことではない。自分の規準を疑うことを疑うという。<解放教育>がなぜ総括をなしえないのか。それは共通の自明の前提を「疑う」ことができないからである。
そうした自明の前提の一つに“実践主義”があるだろう。<解放教育>の総括を阻んできた壁だ。勿論、自らの実践をもって教育を語らなければならないという信仰は、一人解放教育の占有信仰ではない。教師ほど実践を語りたがり、実践を語ることによって教育を語ったと思っている人間も少ない。学校保健研究会の全国大会などでは、たとえば、音楽にあわせて、生徒全員が各自の分担場所を、秩序正しく掃除していくという“実践”が語られる。生徒がサボルこともなく、喜んで楽しく掃除するようになった!“教育実践報告”は効果から組み立てられ、所定の結果を生徒に引き出すための教師の働きかけの磨き上げの理論の反復である。生徒が、教師の働きかけによって、どのように期待する姿に変わっていったかの報告が実践報告である。したがって教師の行為の意味は生徒に現れる効果の意味から規定される。教師のこうした実践主義は安易な操作主義的人間か観を磨きあげてしまう危険性をはらんでいる。
この教師の“実践”概念が対象としてとらえるのは、個体に制限された個人、あるいはその集合としての集団である。教育実践は個を目指す。したがって、働きかける教師の主体の、働きかけることによる変容、自己形成は、自らの視野に入ってこない。人間を個体あるいはその集合としてとらえる以上、働きかける教師という主体は、いつでも均一でノッペラボウで変容することがない。いいかえれば実践主義は教師の自己形成をマヒさせる。<解放教育>は、こうした教師の不動性・ノッペラボウ性を自己批判するところからはじまったはずではなかったろうか。だが、<解放教育>は教育の実践主義の伝統をまっすぐ受けついだ。
教師の実践報告は、猥談に似ている。自分の閨房での実践を微細に組み立て、いかに相手を変容させたか、それはどのような行為によってか、なんてしゃべれば、少年少女はすぐ感動してしまう。そういう実践報告の水準以上の教育実践報告は、そんなにあるものではない。教師の実践報告のそうしたイカガワシサをそのものとして非難する気はない。かわいらしいといってもいい。しかし重大なのは、この実践主義は総括を糞づまりにする機能を持つことだ。
教師は“実践”によって教育を、子どもを語るべきだ、という堅い信念は、実践そのものの総括、“実践主義”を支えている思想・意識・感性への内省を理論的に思いっりひっぱってみることにブレーキをかける。失敗の原因は、自己の力量不足であるか、子どもの質であるか、反動の攻撃であるか、とにかく己の実践の枠組みの外にもとめてしまうから、より一層の“実践”へという形の、総括作業をすりぬける総括に流れこんでしまう。
実践主義は、自らの思想的枠組みに攻撃がむかわないような装置をそなえている。性の深淵なるものがわからないのは、自分の実践のいたらなさのせいであるという総括を引きだしやすいが、性の深淵なるものを総括する方向にむかわないのが性談の常であるように。
実践主義は、総括されないために教育がセットした権力装置なのだ。近代の教育制度は人間を「社会的諸関係の総体」とか「過程」としてみるのではなく、分類され、規格化され、他と明白にちがう個性として、記述されるべき個人としてとらえ固定する。ある生徒個人についての教師それぞれの見方を集積して、明確な統一的個人像をつくりあげる。そうしなければ統一した指導などできない、という。ある教師の見方がその生徒についての見解の多数意見とちがっていると、それは排除される。常識的に言おう。イヤな教師に向ける顔と、好きな教師に向ける顔はちがう。どちらが本当の○○君か、という特定作業で、個人を確定しようとする。そうして出来あがった個人指導カードなるものは「豚の糞」なのだ。その生徒にとっての、あれこれの固定は、その生徒の過程から生みだされた、いわば使用ずみの糞なのだ。教育制度は「個人」を生産する機能であり、教師の実践主義はそのイデオロギー的表現である「個人」を生みだす実践主義は、教師を「個」にかえす。己の“実践”のいたらなさを反省して、責任とって教師は黙す。これが教師の美学。権力装置としての教育が見えない私小説愛読者たる教師の悲惨の美学だ。
実践主義は、さらに重大な欠陥を持っている。いま与えられている秩序の内からしか、この実践は成立しない。目の前の子どもと向き合うことからしか教師の実践は出発しえない。それは当然のことだ。しかし、そうした現実的限定を、実践主義は不当に自己拡大して自分を主張する。目の前の現実に対して実行性を直接に持たないと、秩序の側から判断される議論を、その現実性・具体性のなさ、という点で封殺するのだ。
だがしかし、<実践>というのは、いまある可能態の中でだけ構想できるものでは本当はないのだ。いまだ成らざる、どこにもない可能態を、現実にくくられざるをえない実践のなかで思考するなかでさぐってゆく思想的営為とつながっているときに、それは<実践>とよばれるのだ。疑いのない、素朴実践主義の、理論・思想への抑圧機能を許してはならない。いまある可能態としての秩序を、その不動とも思える必然性をとらえ切ることは、いまだ成らざる可能態の側からの認識がなければできない。そうして、その認識こそが秩序の必然性をゆるがせるのだ。理論的認識の力を忘れてはいけない。ボディブローとしての認識力を教師は創造しなければならない。教師が思想を自己形成できなかったのは、この素朴な実践主義の故なのだろう。
さらに、この実践主義は教育にまつわる様々な神話の生産にかかわっている。教師の実践主義の回路は「より多くの教育がのぞましい」という支配イデオロギーとつながっている。教師は、ゆきとどいた教育を目指す。子どもに教育的行為が及べば及ぶほどこどもは良くなるという信仰を支えているのは、この教師の実践主義にある。反学校・反教育派の学者が、いくらこの支配イデオロギーを批判しても、教師にとどかないのは、この実践信仰があるからだろう。
実践主義は、子どものためになにを「する」かを問う。子どもを放ったらかしにしている、とは教師批判の殺し文句である。教育を善行と思わずには教師たりえない教師の善良性は、教育を思想的に追いつめる努力をサボタージュする心理的根源になっている。不登校は、この教師性の根幹に逆らう。
<解放教育>も、こうした教育の神話に囲まれてきた。その神話の構造を、教師の日常行為にそくしてとり出してみなければならない。兵庫解放研の分裂のときに、福地幸造が、「子どもを守り切るのだ」と主張した者たちに向けた批判を思い出す。教師は自らの行為の生み出す神話を自覚化しなければならない。
教育の神話に対する疑いが教師の中に芽生えてこないのはなぜか?それは神話にもリアリティがあるからだ。神話の中でも人は生き死にできるからだ。神話の中にも深い人生がセットされうるからだ。ファッショ的生徒指導にさらされて卒業した生徒が、何年後かに学校を訪れる。「やあ~あの頃は先生に反発したけれど、今から考えてみれば、あの時の指導がなかったら、自分はダメになっていたろうなあ~」という神話のことばを語る。それを聞いて、教師は「やあいろいろ批判するやつがいるけれども、自分の指導の正しさを見ろ、生徒の声を聞け」と自らの教育を全面肯定する。神話を語ってくれる少数の生徒を含めて、どれほどの抑圧を生産してきたかということは、教師には見えない。神話は教育の両義性など押しつぶし、いっきょに実践主義の回路と結んで、教師のダイゴ味!をつくりだす。
教師の実践主義は教育神話の根源を支え、教師の発想を規定し限界づけ、総括を糞づまりにしてきた。教師は自己否定をはらんだ教育の両義性を徹底的に見つめる思想的強さに欠けていた。そうした教師のあり様を生産する条件を明らかにし、我々のまとってきた、この実践主義を超えていかなければならない。
3.「教育解放研究会」の結成へ向けて
北摂解放研は解放教育を目指してきた。解放教育とは何か。それは既成の学校教育の部分として安定しうるものではない。秩序としての学校教育を解体させる「疑い」の棘を持っていたろう。学校・教育という制度への不断の問いかえしとしてあったはずだ。福地幸造は「<学校解体>という思想的営為」といっていた。学生運動のスローガンではない。学校現場の内側にいながら、こうしたラジカルな問題設定を持ちつづけていた。このことを我々は忘れていないか。
いつのまにか、学校教育の部分として<解放教育>がしくまれてしまっている。そのことを理論的に明確にしつつ対応してきたろうか。理論的総括の可能性は北摂解放研に多くあっただろうと思う。しかし、上述のような実践主義に足をとられて、理論を語ることのウシロメタサの教師感覚の故に、十分に展開することができなかった、ということも真実だろう。この総括の不徹底性に、北摂解放研のつまずきの一因があった。
現実がはるか理論の先を走っている。古色蒼然たる「教育学」その他の体制的理論の骸骨に感覚を縛られている教師の現状がある。我々は「教育」といわれる場で何をしているのか。我々を支配している教育イデオロギーの機能は何か。教師が子どもに語りかける、その身体、言語はいかなる磁場を構成するのか。今日の教育の自己肥大は、いかなる思想的起源、経済的・社会的条件によってもたらされたのか。等々の基本的問題の解明の中で「教育ファッショ」と対決できうるのだろう。<解放教育>を同化吸収解体した敵の姿はそのなかで見えてくるだろう。
このような作業は、現代の教育の内部の岩に鎖づけられている我々が、自身の身体・意識・感覚・思想の自己検証の中で行わなければならない。そのための理論装置は、できあがった形ではどこにもありはしない。あちこちに散在してある武器をひろい集めて構築創造する作業が必要なのだ。あらゆる既成観念をカッコでくくり、現実に耳をそばだてて、新たな視線を共同で構築しなければならない。新たな実践の地平は、この日常的教育体制の批判的理論化の共同作業のなかで形成されるだろう。
我々は<解放教育>ばかりでなく、戦後教育あるいは教育そのものを、北摂解放研の活動の豊かな遺産を武器にひろいつつ、今日の教育状況に対決する思想的営為をつづけている学者・思想家に学びながら、全面的に問い返す作業から再出発しなければならない。
「解放教育」という看板はすでに現実によって無効にされてしまっている。だが解放教育は<教育>そのものを解体構築する射程を持っている。私はそれを確信している。我々は<教育>の批判理論の構築にむけて<解放教育>を吸収囲い込んだ<教育>の枠組みの解体・解放にむけて出発しなければならない。
福地幸造が、教師の世界を「思想的砂漠地帯」と一貫してなげいてきた、その福地の批判に、我々は返礼を返さなければならない。思想の砂漠地帯から抜け出すための、共同の作業が必要とされている。これこそが解放教育運動の嫡流としての北摂解放教育研究会の転生への正道であるだろう。
4.教育解放研究会の性格
以上の観点をふまえて、「教育解放研究会」の性格をまとめてみると、だいたい以下のようになるだろうと思います。勿論、これは出発点での性格であって先のことまで規定しようというのではありません。
1) 教師による「教育」「学校」の批判的対象化作業を共同で行う場とする。
2) 現在の社会・教育の総体がファッショ的情況の中にあるとの認識に立ち、こうした抑圧的教育体制から、子供・教師を解放する道筋を探究する
3) 教師の日常的行為・意識を自覚的に対象化し、教師の囲われている実践・理論の枠組みを明確にし、現代の学校社会を超える理論と実践の構築を目ざす場とする。
4) 北摂解放研の活動の中で展開されてきた解放教育の豊かな遺産を継承し、解放教育が持ってきた近代学校への批判と実践を理論実践装置として組み上げる場とする。
5) 教師の教育実践を支えている教育思想との対決は、以上の課題にとって不可欠の作業である。よって、近代の教育諸思想、元だ日本の教育諸潮流およびそれらを支えている思想を、我々の感性・日常行為にひきつけて、批判検討する場とする必要がある。
6) そのためには、教育哲学、現代思想などの研究者との積極的交流をはかり、学ぶ場としなければならない。

校長は応接室に居た。斯(この)人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅(こじうと)にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許(すこし)づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々(にち/\)の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件(こと)であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草(たばこ)の烟(けぶり)は丁度白い渦(うづ)のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
斯(この)校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。もと/\軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したいと言ふのが斯人の主義で、日々(にち/\)の挙動も生活も凡(すべ)て其から割出してあつた。時計のやうに正確に――これが座右の銘でもあり、生徒に説いて聞かせる教訓でもあり、また職員一同を指揮(さしづ)する時の精神でもある。世間を知らない青年教育者の口癖に言ふやうなことは、無用な人生の装飾(かざり)としか思はなかつた。
まあ君だから斯様(こん)なことを御話するんだが、我輩なぞは二十年も――左様(さやう)さ、小学教員の資格が出来てから足掛十五年に成るがね、其間唯同じやうなことを繰返して来た。と言つたら、また君等に笑はれるかも知れないが、終(しまひ)には教場へ出て、何を生徒に教へて居るのか、自分乍ら感覚が無くなつて了つた。はゝゝゝゝ。いや、全くの話が、長く教員を勤めたものは、皆な斯ういふ経験があるだらうと思ふよ。実際、我輩なぞは教育をして居るとは思はなかつたね。羽織袴(はおりはかま)で、唯月給を貰ふ為に、働いて居るとしか思はなかつた。だつて君、左様(さう)ぢやないか、尋常科の教員なぞと言ふものは、学問のある労働者も同じことぢやないか。毎日、毎日――騒しい教場の整理、大勢の生徒の監督、僅少(わづか)の月給で、長い時間を働いて、克(よ)くまあ今日迄自分でも身体が続いたと思ふ位だ。あるひは君等の目から見たら、今茲(こゝ)で我輩が退職するのは智慧(ちゑ)の無い話だと思ふだらう。そりやあ我輩だつて、もう六ヶ月踏堪(ふみこた)へさへすれば、仮令(たとへ)僅少(わづか)でも恩給の下(さが)る位は承知して居るさ。承知して居ながら、其が我輩には出来ないから情ない。是から以後(さき)我輩に働けと言ふのは、死ねといふも同じだ。家内はまた家内で心配して、教員を休(や)めて了(しま)つたら、奈何(どう)して活計(くらし)が立つ、銀行へ出て帳面でもつけて呉れろと言ふんだけれど、どうして君、其様(そん)な真似が我輩に出来るものか。二十年来慣れたことすら出来ないものを、是から新規に何が出来よう。根気も、精分も、我輩の身体の内にあるものは悉皆(すつかり)もう尽きて了つた。あゝ、生きて、働いて、仆(たふ)れるまで鞭撻(むちう)たれるのは、馬車馬の末路だ――丁度我輩は其馬車馬さ。はゝゝゝゝ。
二年生の五月だった。歓迎遠足の欠席者の点検として始まったHRで、Mが居すわる。
「オマエらそんなことで社会に出て生きていけるんか。自分さえよければ、ええ、他のヤツなんかと思うて生きていくんか!」
「オマエらみたいなボンボン育ちにはわからんやろな。自分の意見もようもたんボンボンが社会で通用し、村育ちのガキで自分の意見もったヤツが差別される。イヤな世の中や」
彼はおいたちに触れながらクラスに迫っていく。「オレはそんな苦労してないのでどう言うてええかわからん」といってつぶされたり、Mのことどう思うか、という流れになったりする。
「オレのことを討議してくれとは言うてない。オレはオレで生きていく。オマエら裸にならんかい」Mは一歩も引きさがらぬ。
柔道部のマネージャーをみごとに果したJは、父が過労で視力を失い、かつてどん底の生活を送ったこと、早く卒業して家計を助けたいと語る。
体育委員としてきばってきたDは、父が小児マヒ後遺症で、金さえあればきっちり手術できたはずなのに、金がなく切断し義足であるといったまま泣き崩れる。
沖縄出身のGは、三年前「本土」にきたこと、父は学歴がなく就職もむずかしかったこと、(都会)の人間はつめたいことを語り、お母さんは学校へ行ってなくて字知らん、といったまま机に顔を伏せる。
教室の中は鳴咽が響き合う。語ろうとして語り切れず、静かな衝撃波が伝わる中で、あるさわやかさがひろがる。
「オレの住んでるところは部落や」とT夫が言ったまま泣いてしまう。
「なんで部落のもんが泣かんならんね!」Mは声を張りあげる。身内を励ますことで自らを励まし、撃つ。
〈丑松の眼は輝いて来た。今は我知らず落ちる涙を止(とゞ)めかねたのである。其時、習字やら、図画やら、作文の帳面やらを生徒の手に渡した。中には、朱で点を付けたのもあり、優とか佳とかしたのもあつた。または、全く目を通さないのもあつた。丑松は先づ其詑(そのわび)から始めて、刪正(なほ)して遣(や)りたいは遣りたいが、最早(もう)其を為(す)る暇が無いといふことを話し、斯うして一緒に稽古を為るのも実は今日限りであるといふことを話し、自分は今別離(わかれ)を告げる為に是処(こゝ)に立つて居るといふことを話した。
『皆さんも御存じでせう。』と丑松は噛んで含めるやうに言つた。『是(この)山国に住む人々を分けて見ると、大凡(おおよそ)五通りに別れて居ます。それは旧士族と、町の商人と、お百姓と、僧侶(ばうさん)と、それからまだ外に穢多といふ階級があります。御存じでせう、其穢多は今でも町はづれに一団(ひとかたまり)に成つて居て、皆さんの履(は)く麻裏(あさうら)を造(つく)つたり、靴や太鼓や三味線等を製(こしら)へたり、あるものは又お百姓して生活(くらし)を立てゝ居るといふことを。御存じでせう、其穢多は御出入と言つて、稲を一束づゝ持つて、皆さんの父親(おとつ)さんや祖父(おぢい)さんのところへ一年に一度は必ず御機嫌伺ひに行きましたことを。御存じでせう、其穢多が皆さんの御家へ行きますと、土間のところへ手を突いて、特別の茶椀で食物(くひもの)なぞを頂戴して、決して敷居から内部(なか)へは一歩(ひとあし)も入られなかつたことを。皆さんの方から又、用事でもあつて穢多の部落へ御出(おいで)になりますと、煙草(たばこ)は燐寸(マッチ)で喫(の)んで頂いて、御茶は有(あり)ましても決して差上げないのが昔からの習慣です。まあ、穢多といふものは、其程卑賤(いや)しい階級としてあるのです。もし其穢多が斯(こ)の教室へやつて来て、皆さんに国語や地理を教へるとしましたら、其時皆さんは奈何思ひますか、皆さんの父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんは奈何(どう)思ひませうか――実は、私は其卑賤(いや)しい穢多の一人です。』
手も足も烈しく慄(ふる)へて来た。丑松は立つて居られないといふ風で、そこに在る机に身を支へた。さあ、生徒は驚いたの驚かないのぢやない。いづれも顔を揚げたり、口を開いたりして、熱心な眸(ひとみ)を注いだのである。
『皆さんも最早(もう)十五六――万更(まんざら)世情(ものごゝろ)を知らないといふ年齢(とし)でも有ません。何卒(どうぞ)私の言ふことを克(よ)く記憶(おぼ)えて置いて下さい。』と丑松は名残惜(なごりを)しさうに言葉を継(つ)いだ。
『これから将来(さき)、五年十年と経つて、稀(たま)に皆さんが小学校時代のことを考へて御覧なさる時に――あゝ、あの高等四年の教室で、瀬川といふ教員に習つたことが有つたツけ――あの穢多の教員が素性を告白(うちあ)けて、別離(わかれ)を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じやうに屠蘇(とそ)を祝ひ、天長節が来れば同じやうに君が代を歌つて、蔭ながら自分等の幸福(しあはせ)を、出世を祈ると言つたツけ――斯(か)う思出して頂きたいのです。私が今斯(か)ういふことを告白(うちあ)けましたら、定めし皆さんは穢(けがらは)しいといふ感想(かんじ)を起すでせう。あゝ、仮令(たとひ)私は卑賤(いや)しい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想(かんがへ)を御持ちなさるやうに、毎日其を心掛けて教へて上げた積りです。せめて其の骨折に免じて、今日迄(こんにちまで)のことは何卒(どうか)許して下さい。』
斯(か)う言つて、生徒の机のところへ手を突いて、詑入(わびい)るやうに頭を下げた。
『皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒(どうぞ)父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんに私のことを話して下さい――今迄隠蔽(かく)して居たのは全く済(す)まなかつた、と言つて、皆さんの前に手を突いて、斯うして告白(うちあ)けたことを話して丁さい――全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です。』
と斯う添加(つけた)して言つた。
丑松はまだ詑び足りないと思つたか、二歩三歩(ふたあしみあし)退却(あとずさり)して、『許して下さい』を言ひ乍ら板敷の上へ跪(ひざまづ)いた。何事かと、後列の方の生徒は急に立上つた。一人立ち、二人立ちして、伸(の)しかゝつて眺めるうちに、斯の教室に居る生徒は総立に成つて、あるものは腰掛の上に登る、あるものは席を離れる、あるものは廊下へ出て声を揚げ乍ら飛んで歩いた。其時大鈴の音が響き渡つた。教室々々の戸が開いた。他の組の生徒も教師も一緒になつて、波濤(なみ)のやうに是方(こちら)へ押溢(おしあふ)れて来た。
近代的な「主体」ははじめからあるのではなく、一つの転倒として出現したのだ。十九世紀西洋の近代思想をどんなにとりいれても、このような「主体」は出てこない。平板な啓蒙主義にはこのような転倒が欠けている。今日の眼からみて「近代文学」とみえるものが例外なしにキリスト教を媒介していることは、影響といったような問題ではない。そこには「精神的革命」があったのであり、しかもそれは「時代の陰」すなわちルサンチマンにみちた陰湿な心性から出てきたものだ。しかも、「愛」が語られたのは、まさに彼らからなのである。
彼らは「告白」をはじめた。しかし、キリスト教徒であるがゆえに告白をはじめたのではない。たとえば、なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか。それは告白が、ねじまげられたもうひとつの権力意志だからである。告白はけっして改悛ではない。告白は弱々しい構えのなかで、「主体」たること、つまり支配することを狙っている。(中略)
私は何も隠していない、ここには「真実」がある……告白とはこのようなものだ。それは、君たちは真実を隠している、私はとるに足らない人間だが少なくとも「真実」を語った、ということを主張している。(中略)告白という制度を支えるのは、このような権力意志である。私はどんな観念も思想も主張しない、たんに、ものを書くのだと、今日の作家はいう。だが、それこそ「告白」というものに付随する転倒なのである。告白という制度は、外的な権力からきたものではなく、逆にそれに対立して出てきたのだ。だからこそ、この制度は制度として否定されることはありえない。また、今日の作家が狭義の告白を斥けたとしても、「文学」そのものにそれがある。(『日本近代文学の起源』1980 増補改訂版 定本柄谷行人集1 p.116)
大正8・9年までに出そろった文壇交友録小説という一種の私小説の源流としては、やはり白樺派の自己小説──自己を中心として、その肉親、家族、恋愛、交友などを無飾に描いていった武者小路の『お目出たき人』『世間知らず』を先蹤とするあの天衣無縫の自己表白の文学まで遡らなければならぬ。個の伸張、我の発揚がそのまま人類の意志にかようと思考した一群の大胆な自己表白者の文学こそ、また私小説の一濫觴にほかならない。そこにあっては、人性そのものに根ざしているかのような(近松)秋江流の痴愚愛執の妄念とはうらはらに、普遍につらなる人類の善意を信じて疑わぬエリート意識がその真率な自己表白を支えていた。〉(「私小説の二律背反」昭和26年 『芸術と実生活』所収)
学校の日課が終った頃、私はこの年老いた学士の教室の側を通った。戸口に立って眺めると、学士も授業を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒等に説明していた。机の上には、大理石の屑(くず)、塩酸の壜(びん)、コップ、玻璃管(ガラスくだ)などが置いてあった。蝋燭(ろうそく)の火も燃えていた。学士は、手にしたコップをすこし傾(かし)げて見せた。炭素はその玻璃板の蓋(ふた)の間から流れた。蝋燭の火は水を注ぎかけられたように消えた。
無邪気な学生等は学士の机の周囲(まわり)に集って、口を開いたり、眼を円(まる)くしたりして眺めていた。微笑(ほほえ)むもの、腕組するもの、頬杖(ほおづえ)突くもの、種々雑多の様子をしていた。そのコップの中へ鳥か鼠(ねずみ)を入れると直(すぐ)に死ぬと聞いて、生徒の一人がすっくと立上った。
「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
問をかけた生徒は、つと教室を離れたかと思うと、やがて彼の姿が窓の外の桃の樹の側にあらわれた。
「アア、虫を取りに行った」
と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は茂った桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく何か捕(つかま)えて戻って来た。それを学士にすすめた。
「蜂(はち)ですか」と学士は気味悪そうに言った。
「ア、怒ってる――螫(さ)すぞ螫すぞ」
口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反(そ)らして、螫されまいとする様子をした。その蜂をコップの中へ入れた時は、生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」というものもある。蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶(もだ)えて、死んだ。
「最早(もう)マイりましたかネ」
と学士も笑った。(島崎藤村『千曲川のスケッチ』)
其時校長は倚子を離れた。立つて一同の顔を見渡し乍ら、『むゝ、諸君の言ふことは好く解りました。其程熱心に諸君が引留めたいといふ考へなら、そりやあもう我輩だつて出来るだけのことは尽します。しかし物には順序がある。頼みに来るなら、頼みに来るで、相当の手続を踏んで――総代を立てるとか、願書を差出すとかして、規則正しくやつて来るのが礼です。左様どうも諸君のやうに、大勢一緒に押掛けて来て、さあ引留めて呉れなんて――何といふ無作法な行動でせう。』と言はれて、級長は何か弁解(いひわけ)を為ようとしたが、軈て涙ぐんで黙つて了つた。
『実は、御願ひがあつて上りました。』と前置をして、級長は一同の心情(こゝろもち)を表白(いひあらは)した。何卒(どうか)して彼の教員を引留めて呉れるやうに。仮令(たとへ)穢多であらうと、其様(そん)なことは厭(いと)はん。現に生徒として新平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があらう。是はもう生徒一同の心からの願ひである。頼む。斯う述べて、級長は頭を下げた。

お君が軽部と結婚したのは十八の時だった。軽部は小学校の教師、出世がこの男の固着観念で、若い身空で浄瑠璃など習っていたが、むろん浄瑠璃ぐるいの校長に取り入るためだった。下寺町の広沢八助に入門し、校長の驥尾に附して、日本橋筋五丁目の裏長屋に住む浄瑠璃本写本師、毛利金助に稽古本を註文したりなどした。
一週間経って、教室へ行くと、受持の教師が来て、出席点呼が済むなり、
「此の級は今まで学校中の模範クラスだったが、たった一人クラスを乱す奴がいるので、一ぺんに評判が下ってしまった。残念なことだ」とこんな意味のことを言った。自分のことを言われたのだと豹一はポンと頭を敲いて、舌を出し、首を縮めた。しかも誰も笑いもしなかった。それどころか、そんな豹一の仕草をとがめるような視線がいくつかじろりと来た。豹一はすっかり当が外れてしまった。
やっと休憩時間になると、豹一はキャラメルをやけにしゃぶっていた。普通、級長のせぬことである。案の定、沼井という生徒が傍へ来て、
「君一人のためにクラス全体が悪くなる」とわざと標準語で言った。豹一は、
「そら、いま教師の言ったことや。君に聴かせてもらわんでもええ。それに心配せんでもええ。君みたいな模範生がいたら、めったにクラスは悪ならん」
沼井はぞろぞろとクラスの者が集って来たのに力を得たのか、
「教室でものを食べるのは悪いことだよ、君」と言った。またしても標準語だった。
「だから君は食べないやろ? それでええやないか。俺が食べるのはこら勝手や」そう言うと、いきなり沼井の手が豹一の腕を掴んだ。
「口のものを吐き出せ。郷に入れば郷に従えということがある」
いつかクラスの者に取り囲まれていた。が、その時ベルが鳴った。豹一は授業中もキャラメルをしゃぶっていた。
三日経った放課後、沼井を中心に二十人ばかりの者にとりかこまれて、鉄拳制裁をされた。
しかし、その瞬間豹一は、こともあろうに、
(お前の母親はいま高利貸の亭主に女中のようにこき使われているんだぞ! いや、それよりも、もっとひどい事をされているんだぞ)と自分に言い聴かせていた。紀代子は着物を着ると、如何にも良家の娘らしかった。(此の女は俺の母親が俺の学資を作るために、毎晩針仕事をしたり近所の人に金を借りたり、亭主に高利の金を借りたりしていることは知るまい。いや、俺が今日此処へ来る前に漬物と冷飯だけの情けない夕食をしたことは知るまい。無論あとでこっそり母親が玉子焼を呉れたが、これは有難すぎて咽喉へ通らなかった。俺の口はしょっちゅう漬物臭いぞ。今も臭いぞ。それを此の女は知るまい。此の香水の匂いをプンプンさせている女は知るまい。俺の母親は銭湯の髪洗い料を倹約するから、いつもむっと汗くさい髪をしているぞ)
少量のわが子弟たちが日本の解放教育を志向する教師集団の中に、幸いにもくるまれているということを、わたしは深く受け止めざるをえないのです。ですが、朝鮮人たらしめるその〈朝鮮〉の所在というものは、なかなかもって、定かなものではありません。行政権力との厳しい対峙の中で、解放教育を志向する学校をあげての教育実践のなかにあってさえ、〈朝鮮〉の命運にかかわりうる在日朝鮮人生徒像というのは、まだまだ論議の対象ではないのです。それがたとえ、本名を名のらすという、未だかつてない教育実践が朝鮮人を朝鮮人にたちかえらすためにくりひろげられているとしても、このこと自体が果して朝鮮人たらしめることなのか、ということには、まだまだ論をまたなくてはならない問題がありそうです。(「民族教育への一私見」『クレメンタインの歌』1977年所収)
詩は美しくあるべきだという、いつの間にかでき上がった美への志向こそ、じつは、明らかにされねばならないものなのです。私たちが「美しい」と言うとき、そこには必ず、醜いものを対置して働いている美意識があります。本当に、美しいことが詩であるとき、民族の圧倒的数量を占める民衆が余儀なくまみれた生活を強いられているとすれば、美しくあらねばならない詩は必然的に民衆を敵にする思想とはならないでしょうか……
醜を抱え切れない純一性こそ、ファシズム右はないかと思い当たるのです。日本の思想が恐ろしいとすれば、端正さを貴重がる美の思想のような気がしてなりません。……
“醜"を裏へ裏へと押し込んでいく思想、構造は身近にいくらでもあります。……芸ごとが占める”美しい"形が”醜"を寄せつけない生理感覚ともなっていきます。美しくあろうにもありようがない生活体、意識体には思いなど及ぶことはなく、ふっきれたぶんだけ”美しい”ことは磨かれたことともなる思想なのです。(「”醜”を生きる思想」『クレメンタインの歌』所収)
和歌、俳句にみるような日本の短詩型文学の.もつゆるがしようのないリズム感は、文学の伝統としてはあまりにも、広い裾野をもちすぎており、日本人の心情を培う思惟、思考の土壌とさえいえるぐらいに巨大なものである。いかにハイカラな近代思想の持ち主であれ、この伝統的抒情に出くわすやいなや、もう「純粋」日本人の相貌と情感をかもしだすのだ。神風特攻隊員や学徒出陣兵士たちの遺書に散見する辞世の歌も、忠臣蔵の浅野内匠頭が死の間際に詠んだという悲憤の辞世も、ひとしなみに「歌」であることによって両者の違いは渾然となり、哀惜の詠嘆だけが時代を超えて読む者の情感に取りこんでくるのである。(「亡霊の拝情」前掲書所収)
この私の、揺藍期の夢がいっぱいに身籠っている日本語を、私は放擲するつもりは毛頭ない。そうではなくて、過重な規制によって培いえた日本語を・日本人に向ける最大の武器として私は駆使したい。
在日朝鮮人二・三世が海の向こうの母国に、類似している自分を探すということではなくて、民族的本質を断絶的に継承しているところの内実を思想化し、その内側に加工し乗り越え、そして編入させてゆく。自分の資質を日本的資質ととらえて、日本人の視界、日本人の感性、日本人の思惟を打砕く武器とする。そういうことによってのみ、在日朝鮮人の論難は正当である、と私は思うのです。(「朝鮮人の人間としての復元」『さらされるものとさらすものと』1971年 所収)
日本の中で、ここが韓国なんだ。ここが朝鮮なんだというふうに生きられる人間がたくさんでてきて、そういう態度をもった人間にであうというのが、われわれにとって自然のというか、自然のことというよりも、生き生きした体験になるような、そういう日本の伝統をつくらなければ、くり返しくり返し排他的な国家主義にもどっていく。それは日本人の間題なんです。
(「在日朝鮮人文学をめぐって」(座談会)での鶴見俊輔の発言。1981年 前掲論文とともに金石範の『「在日」の思想』所収)
ここにとどまるぬけがらが
まさしくお前の
お前だと。
ひたかくしの
奥の
ぼくのぬけがらに
むしられた少女の
ことばのかけらが散っている。
がらんどうの
部屋の
荷のない行李に
妻の手ざわりに折りたたまれた
行方不明の
ぼくがいる。
統一までが国家まかせで/祖国はそっくり/眺める位置に祭ってある。/だから郷愁は/甘美な祖国への愛であり/在日を生きる/一人占めの原初さなのだ。/日本人に向けてしか/朝鮮でない/そんな朝鮮が/朝鮮を生きる!/だから俺に朝鮮はない。
俺の伸び上がる先で
そうだ! まちがいなく
その先で
照り映えていた日があったのだ!
手という手が
差し上げた先で湧きかえっていた
その熱い日射しを見なくなったのだ!
抱擁があった!
どよめきがあった!
声でない声の涙があった!
思想に命運を
あけ渡したことなどなく
兄嫁があり
いとこがおり
山が揺れて
海が光った!
うとくなった年月の果てで
俺の暮しは 延びあがる先で闇となるのだ
枢、
枢、
柩、
瓦解するダンボール箱に
おしひしがれる
夕餉
(「日日の深みで(一)」)
〈在日〉への下降の底に見えてくるものをとらえる。〈在日〉のすべてをとらえようとする希求が、その日常から不可避にわきだす。この、〈在日〉の装置は世代を問わない一世と等しく代をついで、みあげられた箱のような〈在日〉かつづく。〈光りのうらで白んでいるのは/ものうい語りの/独白だ。見知らぬどうしが/よそおいとおした/ものぬけの殻の/がらんどうの所在だ。いつとはなしに/くらました/沼の底の/鐘の孤独よ。〉(「果てる在日(一)」)
岩盤を生きるつよさがなんであるかは、彼女にとってさしたることのいわれではない。ただ、根づくことのない異郷の固さにも、どっかり腰を据えていられる場所が、自分にあることを知っているだけである。
さかしまに裸の根をかざして、わざわざ風のわたるうすくらがりを見入っているのが、よもや彼女をかかえているくにのふるえであろうとは、誰もまだ知るはずのないことなのである。(「朝までの貌」)
なにがあるというのですか?
今日が今日であったなんの証しがあなたの今日にあったのですか?
返された笑みでしたか?
ねじれた嫌悪のお返しでしたか?
とって返した踵ではなくそれでも求めた手だったのですか?
出会えない仕切りの向こうとここで
交わる言葉のひとひらくらいは届けましたか、届きましたか。
同胞と僑胞はどの夜の「どのようなしじまで安らいだので
同じ呼び名がせめぎあう日日のきしみはなくなりましたか?
そうも方便に在日をこなして
それでも不幸は日本暮しが仇なのですね?!
やめにしましょう、人さまのせいで耐えるってことは。
そこひの闇をまぎれていながらやせた条理の鰓だけが張るさもしい正義は棄てるとしましょう。
手なれた手順の手際のような。
私には、童謡、子どものとき唄ったわらべうたがありません。誰しも至純に想い起こさるべき、幼い日の歌がないのです。あるのは押しつけられた日本の歌ばかりです。それも押しつけられる歌とはつゆ知らずに唄った歌でしたので、無心に唄う幼い日まで失くしてしまった「歌」なのです。あり余る朝鮮の風土の中で、ほおもめげよとばかり声はり上げて唄った歌は、みながみな、日本の童謡であり、文部省選定の唱歌ばかりです。夕やけ小やけと唄うとき、かさぶたのような藁屋根の向こうに、鎮守の森を歌ごころでかぶせて唄っていたのです。それだけに歌の情景から遠い朝鮮の風土は、私の心からずんずん離れていかざるをえなかったのでした。(「私の出会った人々」1980年『クレメンタインの歌』所収)
朝鮮に来た日本の先生たちも、個別的にはみんないい人たちでありました。朝鮮に入植した本の人たちも、また個別的にはみんないい人たちであったに違いありません。やさしく、折り目正しい人たちでしたのに、どこかで本当のことが知らされないために、個人の善良さというのは集約すると全体のいけないことに還元されてしまう。教師は口ぐせのように強く正しく生きよと教えていながら、それを受け入れる子どもたちが、「強く正しく」生きることが現実には祖国の「朝鮮」から離れていくことでしかなかったのですから。今日の教育者たちにしたって、かつての日本の教育者たちの系譜につらなっていないとは、まだ誰れも言いきれないことのように私には思えるのです。(同前)
先生方のほとんどが、勉強した知識を分けることなく、自分個人のものにすることによってのみ有名校をめざしえた部類の人たちであったことも、またつらい事実の一つです。その知識人たちがいま解放教育に身を挺しているのです。どこかで転位してなければできないことを、いま一生懸命とりくんでいられるわけです。どこでどのように転位をとげてのことでしょうか? その転位のとげかたが問題なのです。
確実に奪われていった歴史から目かくしされ、見せかけの真実に真理を追い求めていた自己の負い目が、先進的意識を表立たせねばならない「解放教育」になだれるとき、もうれつにせかれるかたちで自分をも含めた告発者を必要としてくるのです。そして、その告発者の登場にただ服するという、誠実さだけをおう溢させる忍耐教師、もしくは善意の社会人が現出するという次第です。……
在日朝鮮人といえば、はなから「差別」の対象でしかないような意識。もしこのような視点をそのまま延長させるとなると、このような意識とか、視点、感性を差配しているのが、実は、おのれの信条のために朝鮮人の主体的な自我登場を釘づけにする独善であったとしたらどうなるのでしょう? その所為は日本人の思想証明の場に一方的な証人の座を朝鮮人に押しつけ、くくりつける今日不在の朝鮮人強要とはならないでしょうか。(「「差別」のなかの起点と視点」(1974年)『きらされるものとさらすものと』所収)
在日朝鮮人にとって〈朝鮮〉とは「在日」のことなのだ。「在日」を生きることに、若い在日世代たちよ、確信を創りだそう。固有の伝統慣習から切れているとして、それがただちに負い目となるのではなく、本国にすらないものを私たちが持っているのであり、それが持ちこまれることによって豊かになるべき伝統を、慣習を、はては思想までをも、私たちは始まるべき「在日」の”はじまり"に据えるとしよう。本国に併せて〈朝鮮〉に至るのではなく、至り得ない朝鮮を生きて〈朝鮮〉であるべき自己を創りだそう。(「展望する在日朝鮮人像」1976年 『クレメンタインの歌』所収)
さらしものになっているのではない。さらさねばならないことをさらしあっているのだ。……K君よ、考えてもみてくれ、君たちが「朝鮮語」に出会っただけで、朝鮮人がふるえるのだ。同じふるえでも、歓喜のふるえがあることも知ってくれ。私のこの思いが、湊川高校へ来させ、またいきさせていることのすべてだ。〉(「さらされるものと、さらすものと」1975年 『さらされるものと、さらすものと』所収)

昨日校長が生徒一同を講堂に呼集めて、丑松の休職になつた理由を演説したこと、其時丑松の人物を非難したり、平素の行為に就いて烈しい攻撃を加へたりして、寧ろ今度の改革は(校長はわざ/\改革といふ言葉を用ゐた)学校の将来に取つて非常な好都合であると言つたこと――そんなこんなは銀之助の知らない出来事であつた。あゝ、教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬、人種としての軽蔑――世を焼く火焔は出発の間際まで丑松の身に追ひ迫つて来たのである。
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それから当分のあいだ三四郎は毎日学校へ通って、律義に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席してみた。それでも、まだもの足りない。そこでついには専攻課目にまるで縁故のないものまでへもおりおりは顔を出した。しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。一か月と続いたのは少しもなかった。それでも平均一週に約四十時間ほどになる。いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。三四郎はたえず一種の圧迫を感じていた。しかるにもの足りない。三四郎は楽しまなくなった。
ある日佐々木与次郎に会ってその話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、目を丸くして、「ばかばか」と言ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十ぺん食ったらもの足りるようになるか考えてみろ」といきなり警句でもって三四郎をどやしつけた。三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたらよかろう」と相談をかけた。
「電車に乗るがいい」と与次郎が言った。三四郎は何か寓意でもあることと思って、しばらく考えてみたが、べつにこれという思案も浮かばないので、
「本当の電車か」と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、
「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」と言う。
「なぜ」
「なぜって、そう、生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上にもの足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ」
学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。暑い夏を葡萄棚の下に寝て暮らそうという人もある。浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用足しに行こうと企てているものもある、月の初めから正午ぎりになっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。それに用のないものも、午から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。清三は日課点の調べにあきて、風呂敷包みの中から「むさし野」を出して清新な趣味に渇した人のように熱心に読んだ。
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毎日よく降つた。もはや梅雨明けの季節が來ている。町を呼んで通る竿竹賣の聲がするのも、この季節にふさはしい。蠶豆賣(そらまめうり)の來る頃は既に過ぎ去り、青梅を賣りに來るにもやゝ遲く、すゞしい朝顏の呼聲を聞きつけるにはまだすこし早くて、今は青い唐辛(たうがらし)の荷をかついだ男が來はじめる頃だ。住めば都とやら。山家生れの私なぞには、さうでもない。むしろ住めば田舍といふ氣がして來る。實際、この界隈に見つけるものは都會の中の田舍であるが、でもさすがに町の中らしく、朝晩に呼んで來る物賣の聲は絶えない。(島崎藤村『短夜の頃』)
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板ばりの床にひかれた感じのいいマット、雄一のはいているスリッパの質の良さ──必要最小限のよく使いこまれた台所用品がきちんと並んでかかっている。シルバーストーンのフライパンと、ドイツ製皮むき器は家にもあった。横着な祖母が、楽してするする皮がむけると喜んだものだ。
小さき蛍光灯に照らされて、しんと出番を待つ食器類、光るグラス。ちょっと見ると全くバラバラでも、妙に品のいいものばかりだった。特別に作るための……たとえばどんぶりとか、グラタン皿とか、巨大な皿とか、ふたつきのビールジョッキとかがあるのも、なんだかよかった。小さい冷蔵庫も、雄一がいいというので開けてみたら、きちんと整っていて、入れっぱなしのものがなかった。
うんうんうなずきながら、見て回った。いい台所だった。私は、この台所をひとめでとても愛した。(吉本ばなな『キッチン』1987)
ところが、学校や先生や生徒が登場する文学作品は、それこそ無数にあるのです。町をあるけば先生にぶつかる、といわれますが、小説を読めば先生や生徒に出会う確率のほうが高そうです。このことは、資料がない、少ないというのに比べたらたいへん都合のいいことですが、反面、この作業が膨大な作業であることからくる困難につきあたります。魚勝と云う肴屋の前を通り越して、その五六軒先の露次とも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高い崖で、その左右に四五軒同じ構の貸家が並んでいる。ついこの間までは疎らな杉垣の奥に、御家人でも住み古したと思われる、物寂た家も一つ地所のうちに混っていたが、崖の上の坂井という人がここを買ってから、たちまち萱葺を壊して、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請に建て易えてしまった。宗助の家は横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこを択(えら)んだのである。(『門』)
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が、東京の町で不思議なのは、銀座通りに落ちている紙屑ばかりじゃありません。夜更けて乗る市内の電車でも、時々尋常の考に及ばない、妙な出来事に遇うものです。その中でも可笑しいのは人気のない町を行く赤電車や青電車が、乗る人もない停留場へちゃんと止まる事でしょう。これも前の紙屑同様、疑わしいと御思いになったら、今夜でもためして御覧なさい。同じ市内の電車でも、動坂線と巣鴨線と、この二つが多いそうですが、つい四五日前の晩も、私の乗った赤電車が、やはり乗降りのない停留場へぱったり止まってしまったのは、その動坂線の団子坂下です。しかも車掌がベルの綱へ手をかけながら、半ば往来の方へ体を出して、例のごとく「御乗りですか。」と声をかけたじゃありませんか。私は車掌台のすぐ近くにいましたから、すぐに窓から外を覗いて見ました。と、外は薄雲のかかった月の光が、朦朧と漂っているだけで、停留場の柱の下は勿論、両側の町家がことごとく戸を鎖した、真夜中の広い往来にも、さらに人間らしい影は見えません。(『妖婆』大正八年)

「待ちたまえ、さらに手塚君の説を駁さねばならん、手塚君は英雄は個人主義である、英雄は民衆を侵掠したといった、侵掠か征服かぼくはいずれたるかを知らずといえども、弱者が強者に対して侵掠呼ばわりをするのは今日の悪思想であります、婦人は男に対して乱暴よばわりをなし、貧者は富者に対して圧迫よばわりをなし、なまけ者が勤勉者に対して傲慢よばわりをなす、ここにおいてプロレタリアはブルジョアをのろい、労働者は資本家をのろい、人民は政府をのろい、人は親をのろい、妻は良人をのろう、そもそもそれははたして正しきことであるか、思うに民衆といいデモクラシーと叫ぶこと今日ほどさかんなときはない、しかし心をしずめ耳をそばだてて民衆の声を聞きなさい、かれらはこういっている。『首領がほしい』『私達を指導してくれる人がほしい』『レーニンがほしい』『ムッソリーニがほしい』『ナポレオンがほしい』と、いかなる場合にも団体は首領が必要である。首領は英雄である。フランス人は革命をもって自由を得た、しかし革命には十人をくだらざる首領があった、ローマの国民はなにを望んだか、シーザーにあらずんばブルタスであった。日本の国民はなにを望んだか、源にあらずんば平であった、ナポレオンを島流しにしたのは国民であったが、かれを帝王にしたのも国民であったことをわすれてはならない。しかるに手塚君はなんのために英雄を非認するか、英雄いでよ、正しき英雄いでよ、現代の腐敗は英雄主義がおとろえたからである、ぼくのいわゆる英雄は活動写真の近藤勇ではない、国定忠治ではない、鼠小僧次郎吉ではない、しかもまた尊氏、清盛、頼朝の類ではない、手塚君の英雄でもなければ野淵君の英雄でもない、ぼくは正義の英雄を讃美する、いやしくも正義であれば武芸がつたなくとも、知謀がなくとも、学校を落第しても、野球がまずくとも、金持ちでも貧乏でも、すべて英雄である、この故にぼくはこういいたい、『すべての人は英雄になり得る資格がある』と」
《日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。…イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているに過ぎない。イデオロギーの終焉もへちまもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。…》
このように、丸山真男は一方で、経験論的でリアリスティックな態度をときながら、他方で、その反対に、思想や原理の優位性を説いている。丸山は、どちらが優位であるとか、あるいは、それらの「総合」が必要だともいわない。ただ、自分の属する文脈が思想を軽視するようなところでなら、思想を重視するだけのことである。「人を見て法を説け」というのは、そのことだ。だが、このような態度はわかりやすいものではない。というより、むしろ誤解されるに決まっている。

私は今日から休ませてもらいます。みんながイジめるし、馬鹿にするし、じゅ業料もおさめられないし、それに前から出すことにしてあった戦争のお金も出せないからです。先生も知っているように、私は誰よりもウンと勉強して偉くなりたいと思っていましたが、吉本さんや平賀さんまで、戦争のお金も出さないようなものはモウ友だちにはしてやらないと云うんです。――吉本さんや平賀さんまで遊んでくれなかったら、学校はじごくみたいなものです。
先生。私はどんなに戦争のお金を出したいと思ってるか分りません。しかし、私のうちにはお金は一銭も無いんです。お父さんはモウ六ヵ月も仕事がなくて、姉も妹もロクロクごはんがたべられなくて、だんだん首がほそくなって、泣いてばかりいます。私が学校から帰えって行くたびに、うちの中がガランガランとかわってゆくのです。それだのに、お父さんにお金のことなんか云えますか。でも、みんなが、み国のためだというのでこの前、ほんとうに思い切って、お父さんに話してみました。そしたら、お父さんはしばらく考えていましたが、とッてもこわい顔をして、み国のためッてどういう事だか、先生にきいてこいと云うんです。後で、男のお父さんが涙をポロポロこぼして、あしたからコジキをしなければ、モウ食って行けなくなった、それに私もつれて行くッて云うんです。
先生。
お父さんはねるときに、今戦争に使ってるだけのお金があれば、日本中のお父さんみたいな人たちをゆっくりたべさせることが出来るんだと云いました。――先生はふだんから、貧乏な可哀相な人は助けてやらなければならないし、人とけんかしてはいけないと云っていましたね。それだのに、どうして戦争はしてもいいんですか。
先生、お父さんが可哀そうですから、どうか一日も早く戦争なんかやめるようにして下さい。そしたら、お父さんやみんながらくになります。戦争が長くなればなるほどかゝりも多くなるし、みんながモット/\たべられなくなって、日本もきっとロシヤみたいになる、とお父さんが云っています。
先生。私は戦争のお金を出さなくてもいゝようにならなければ、みんなにいじめられますから、どうしても学校には行けません。お願いします。一日も早く戦争をやめさせて下さい。こゝの長屋ではモウ一月も仕事がなければ、みんなで役場へ出かけて行くと云っています。そうすれば、きっと日本もロシアみたいになります。
どうぞ、お願いします。
この手紙を、私のところへよく話しにくる或る小学教師が持って来た。高等科一年の級長の書いたものだそうである。原文のまゝである。――私はこれを読んで、もう一息だと思った。然しこの級長はこれから打ち当って行く生活からその本当のことを知るだろうと考えた。〉(『級長の願い』「東京パック」1932(昭和7)年2月号)
小學校の校長は、三十七、八の、何處か人好きのしない、澁面の男だつた。校長でもあり、訓導でもあり、小使でもあつた。教室は二十程机をならべたのが一室しかなかつた。一年から六年生迄の男の子も女の子も、そこに一緒だつた。教室には地圖もかゝつてゐたし、理科用の標本の入つてゐる戸棚もあつたし、(その中には剥製の烏が一羽ゐた。)白い鍵のはげたオルガンが一臺隅つこに寄せてあつた。校長は坊主を一番嫌つた。この先生がどうしてこの村へ來たか誰も知つてゐなかつた。そして又澁顏をして人好きが惡かつたが、「偉い人」だ、さういふので、尊敬されてゐた。市の小學校で校長と喧嘩したゝめに、こんな處へ來たのだとも云はれていた。先生の室――それは、その教室から廊下を隔てゝすぐ續いてゐた――には、澤山本が積まさつてゐた。
源吉は、先生に、「坊主歸りました。」と云つた。先生は顏をふむ! といふ風に動かして、「さうか、肥溜の中へでも、つまみ込んでしまへばよかつたのに。あれが村に來る度に、百姓がだん/\半可臭くなつて、頓馬になつてゆくんだ。――畜生。」と云つた。
話がかうしてゐるうちに纏つて行つた。源吉は誰からとなく、校長先生が裏に廻つてゐる、といふ事をきいた。所が、同じ村のある百姓が、地主のために、立退きをせまられてゐるといふことが出來上つてから、急にさういふことが積極的になつた。
川向ひから、若い男がやつてきた。自分の方も一緒にやつた方が、地主に當るにも都合がいゝといふことを云つた。日を決めて、一度、小學校に集つて、其處で、どうするか、といふことを打ち合はせることにした。
その日吹雪いた。風はめつたやたらにグル/\吹きまくつた。降つてくる雪は地面と平行線になつたり、逆に下から吹き上つたり、斜めになつたり、さうなるとすぐ眼先さへ、たゞ眞白に、見えなくなつてしまつた。それで道から外れると、膝まで雪の中にうづまつた。雪は外套のどんな隙からでも入りこんで、手の甲や、爪先などは、ヅキン/\痛んできた。小學校へは、遠い家は小一里もあつた。
彼は、この自伝的エッセイの最後に、「教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。」と結んでいます。いわば「優秀な」教員として充実した生活を送っていたことを、後年ふりかえってそのように述べているのです。先生の数が五人しかない。党派も有りようがない。それに分教場のことで、主任といっても校長とは違うから、そう責任は感じておらず、第一非常に無責任な、教育事業などに何の情熱もない男だ。自分自身が教室をほったらかして、有力者の縁談などで東奔西走しているから、教育という仕事に就ては誰に向っても一言半句も言うことができないので、私は音楽とソロバンができないから、そういうものをぬきにして勝手な時間表をつくっても文句はいわず、ただ稀れに、有力者の子供を大事にしてくれということだけ、ほのめかした。然し私はそういうことにこだわる必要はなかったので、私は子供をみんな可愛がっていたから、それ以上どうする必要も感じていなかった。
特に主任が私に言ったのは荻原という地主の子供で、この地主は学務委員であった。この子は然し本来よい子供で、時々いたずらをして私に怒られたが、怒られる理由をよく知っているので、私に怒られて許されると却って安心するのであった。あるとき、この子供が、先生は僕ばかり叱る、といって泣きだした。そうじゃない。本当は私に甘えている我がままなのだ。へえ、そうかい。俺はお前だけ特別叱るかい。そう云って私が笑いだしたら、すぐ泣きやんで自分も笑いだした。私と子供とのこういうつながりは、主任には分らなかった。
牛乳屋の落第生は悪いことがバレて叱られそうな気配が近づいているのを察しると、ひどくマメマメしく働きだすのである。掃除当番などを自分で引受けて、ガラスなどまでセッセと拭いたり、先生、便所がいっぱいだからくんでやろうか、そんなことできるのか、俺は働くことはなんでもできるよ、そうか、汲んだものをどこへ持ってくのだ、裏の川へ流しちゃうよ、無茶言うな、ザッとこういうあんばいなのである。その時もマメマメしくやりだしたので、私はおかしくて仕方がない。
私が彼の方へ歩いて行くと、彼はにわかに後じさりして、
「先生、叱っちゃ、いや」
彼は真剣に耳を押えて目をとじてしまった。
「ああ、叱らない」
「かんべんしてくれる」
「かんべんしてやる。これからは人をそそのかして物を盗ませたりしちゃいけないよ。どうしても悪いことをせずにいられなかったら、人を使わずに、自分一人でやれ。善いことも悪いことも自分一人でやるんだ」
彼はいつもウンウンと云って、きいているのである。
こういう職業は、もし、たとえば少年達へのお説教というものを、自分自身の生き方として考えるなら、とても空虚で、つづけられるものではない。そのころは、然し私は自信をもっていたものだ。今はとてもこんな風に子供にお説教などはできない。あの頃の私はまったく自然というものの感触に溺れ、太陽の讃歌のようなものが常に魂から唄われ流れでていた。私は臆面もなく老成しきって、そういう老成の実際の空虚というものを、さとらずにいた。さとらずに、いられたのである。
だから、歴史には死人だけしか現はれてこない。だから退ッ引きならぬ人間の相しか現はれぬし、動じない美しい形しか現はれない、と仰有る。生きてゐる人間を観察したり仮面をはいだり、罰が当るばかりだと仰有るのである。だから小林のところへ文学を習ひに行くと人生だの文学などは雲隠れして、彼はすでに奥義をきはめ、やんごとない教祖であり、悟道のこもつた深遠な一句を与へてくれるといふわけだ。
生きてゐる人間などは何をやりだすやら解つたためしがなく鑑賞にも観察にも堪へない、といふ小林は、だから死人の国、歴史といふものを信用し、「歴史の必然」などといふことを仰有る。
……小説は十九世紀で終つたといふ、こゝに於いて教祖はまさしく邪教であり、お筆先きだ。時代は変る、無限に変る。日本の今日の如きはカイビャク以来の大変りだ。別に大変りをしなくとも、時代は常に変るもので、あらゆる時代に、その時代にだけしか生きられない人間といふものがをり、そして人間といふものは小林の如くに奥義に達して悟りをひらいてはをらぬもので、専一に生きることに浮身をやつしてゐるものだ。そして生きる人間はおのづから小説を生み、又、読む筈で、言論の自由がある限り、万古末代終りはない。小説は十九世紀で終りになつたゾヨ、これは璽光様の文学的ゴセンタクといふものだ。
晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。
この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。
ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えているという意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持って来ても構わぬでしょう。とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。
つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。