(2)モノが薄れる 2008-06-13
本を読むということは、「モデル作者」と「語り手」と「モデル読者」が互いに相手を作り上げることなのだ、とウンベルト・エーコは言っています。たとえば「私」という語り手が、語りはじめたとして、読者は、その物語の成り行きを傍観しているのではなく、「私」やその語り手の背後から「モデル作者」が読者に語りかけ、介入してくるのが「読書」というプロセスであるとエーコ先生は『エーコの文学講義』のなかで言っています。
私は本を読むのが、ホント絶望的に遅いのです。なぜ遅いのか考えてみると、語り手や作者の「語りかけ」に、すぐその場で応答しようとしてしまうんですね。小学生のころ、「読書感想文」というのを書いてこいと言われて、本に書いてあることから触発された自分の経験などを書いていったら「これは読書感想文ではない」と先生がクラスの前で説教して、恥をかいたのを覚えています。いまだに、いわば「脱線読書」ばかりしているので、絶望的に読むのが遅いのでしょう。ですが、エーコ先生に従えば、私の読書こそは作者から期待されている「モデル読者」なのではないか、と居直りたくなります。
それはともかく、この語り手と読者と作者の相互作用も、当然のことながら時代の変容とともに大きく変わった来ているのだろうと思います。たとえば以下の文章を読んでください。
朝顔売とか、そらまめ売とか、青唐辛子などを売り歩く人たちを見たことがない読者でも、物売りの声を聞いたことがあれば、それなりにこういう情景を描くことができるでしょうが、竿竹売りの声も聞いたことがないと、こういう文章から、モノを通しての季節のうつりゆきを感じとるのはとてもむつかしいのではないでしょうか。そういう時代になってしまうと、「モデル作者」はこういう文章を書けなくなりましょう。
これは、どうでしょう。
よほどの料理好きでないかぎり、初めてみたよその家の台所に「ほれる」なんてことは起こらないだろうなー、と私などは思ってしまいます。ドイツ製皮むき器はどんなものか知りませんが、包丁一本あったらたりることだし、ふたつきのビールジョッキも、このころはやったのかもしれませんが、がらくたでしょう。冷蔵庫のなかに入れっぱなしのものがない、なんてのも生活のにおいがしない、気持ち悪い家だな、などとかんがえてしまう私などはこの小説の「モデル読者」にはなれないようですね。時代から言えば、私は吉本の時代に生きているのに、藤村の文章の「読者」のほうにより近いのはなぜなのでしょうか?
小説にはさまざまなモノが登場してきます。それが登場人物に劣らず固有性を帯びているとき、私たちは、そこに小さな世界を読み取ります。それは場所と時代の刻印を押されて堂々と存在して初めて私たちは、そこに私たちが暮らしている世界とは別の世界が展開している実感をえます。モノが存在感をもって生きていなければ、モノと共に暮らしている登場人物たちも、ただの虚構にみえてきます。
前回、「地名が薄れる」で、このごろの小説から具体的な地名がなくなっているのではないか、ということをいいましたが、地名だけではなく、モノもまたその存在性が薄くなっているのではないでしょうか。川上弘美の『センセイの鞄』(2001)のはじめのほうに、センセイが駅弁についてくるお茶入れ(陶製)をいくつも出してきて、これは妻とどこに行ったときのもの、これは……と語る場面があります。固有性を認識できるのはセンセイだけ、「モデル作者」も「モデル読者」も、そのモノを認識できない。そういうモノばかりのなかに私たちが取り囲まれている、ということを表現したかったりしたのかもしれませんが。あるいはセンセイの思い出への固着という事態のほうが問題だったので、個別のお茶入れを描き分ける必要もなかったのかもしれません。モノは舞台装置にもならず、背景画に描かれる動かない物でしかなくなっているように思うのは私の「歳」のせいなのでしょうか。
あまり〈学校〉とつながりませんが、『国語』の教科書に登場する作品のなかのモノを、国語の先生はどのように扱ってきたのでしょうか。そういう設定で考えるべきなのかもしれませんね。
朝顔売:写真は下記より
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