(8)老人を先取りする
吉本隆明は、岡本翁とちょうど同じくらいの歳で、ことし82歳でしょう。『老いの超え方』(朝日新聞社 2006.5)というインタビュー集を読みました。『「ならずもの国家」異論』(2004)は読みましたが、吉本隆明の「老い」の考察ものははじめてです。歳とったなーと、ちょっと悲しくなるような話もしているのですが、自分がまさに体験している「老い」を、普通の老人ならいえないようなことをあえて言っているのは、吉本流なのでしょう。いま自分にできる重要な仕事の一つだと考えているのでしょう。
ここで、吉本は「希望もへちまもねえもんだ。誰が親切にしてくれるんだ。もう体が不自由になり、病気になって死ぬことしか残っていないんだ」という「老人性うつ病」の超え方をこんなふうに言っています。「要するに、希望を小刻みに持つしかない。例えば、今日は孫と遊んで楽しかった、面白かった。そういう状態に持っていけるようにするしか防ぎようがないわけです。」
「老人」以前の時、人はたいてい自分のこれから先の人生の設計図を描くわけです。10年先とか5年先とかがあるのだとうという想定で、あれもしたい、これもやってみたい、などと考えることができる。とりわけ退職前になれば、こういう希望をえがきます。そういう発想はまだ老年ではないのですね。基本的に若い人と同じなのです。80になってもそういう設計図を描いている人は老年ではないのでしょう。吉本は「老い」のことを書いているのですが、自分がやってみたいことができなくなったことへの絶望については何も語っていませんが、吉本に設計図がないはずはありません。これからやろうとしていたことができなくなる絶望が吉本に「老人性うつ病」からの抜け出し方をしゃべらせているのだろうと推察します。
定年後の設計をしようとするときに、やがてそうした計画を立てたりもできなくなる先が待っているなどとは通常考えません。ですから「小刻みに」描かれる計画や希望という、いってみれば、いま、ここで生きていることを楽しむ計画とも重なり合うような、中長期的設計図をえがく癖がありません。ですが、「定年後」を描こうとする時に、私たちは10代、20代以来描き慣れてきた長期設計図でしかないような絵を描くべきではないでしょう。小さな日常の楽しみを括弧でくくったり、無視するような描きはすべきではないでしょう。
そう考えてみると、岡本翁が元気なのは、時折おとずれる客に料理を作り、話を聞いてもらう、そういう「小刻み」な楽しみが、民宿という生活の糧と重なっていることからくるのではないかと思われてきます。
ほかにもいくつか吉本は示唆的なことをいっているのですが、以下は、私が前に書いたことと重なりますので、引用だけしておきます。まあ、社会が「定年」後の人間の有効な使い方をしていない、ということなのですが。「定年」者にしてみれば、「ごくろうさまでした」という言葉で突然2級市民に落とされる感じなのですね。玄田某が組合の講演で団塊世代に向けてというか、質問をした私に「ご苦労さんでした」と言った時、「むか〜」ときたのを憶えていますが、吉本が老人のこころを理解していない現役世代の人たちに文句を言っているのが少しわかりました。ということは定年世代は「老人」予備軍なのでしょうね。
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