(11)研究会の知識マネージメント
教育の境界研究会の活動の諸場面のなかで、いちばん生産的で刺激的な場面をあげるとすれば、例会とか合宿における議論の場であると私は確信しています。会報や年報を読んであらたな心躍るような気づきがおこることはあまりありませんが、例会などではいつも何かに気づかされます。ところが、そこで議論されたり問題になったことを記録したり、まとめたり発展させる、ということがなかなか難しいのです。その作業の一部は例会の感想に反映されているのでしょうが、「やー、もっといろいろ話になっていたのになー」と思うのです。
例会の感想の書く時に、その例会での他者の発言を正確に引用して、他の発言とのズレや応答をふまえて自分の考えを書くという作業は、とても困難なので(そういうかまえで参加していないことが原因の一つでしょうが)感想はつい自分の独断と偏見で書いてしまうのです。ましてや、そこでの議論の場を作っている暗黙の了解や共同的な思い入れなどを検討する、などというレベルには達していません。さらに、当日の議論と関係のある文献データを参照して、議論されたことをさらに超えるような「まとめ」を書くというようなことは、とてもできそうもありません。
ところが、「知識経営」を企業戦略の核だとする企業、とりわけIT関連企業など「知識が製品の中心」である企業では、上記のようなことを実行しているのだそうです。決められたルールとか知識、情報を機械的に配合して、上から命令されるのを下はこなしているだけだ、というイメージで企業活動をかんがえるのは間違いなのです。会社を構成する成員のなかに「埋もれた知識」がある、そういうのを共同の討議の中で発掘するようなことをやっているそうです。『知識経営のすすめ』(野中郁次郎・紺野登 ちくま新書)の読みかじりですが、マイケル・ポランニーなどをふまえて「暗黙知」をどう経営に生かすか、なんてかんがえるんですね。ですから、わが研究会もいい線までいっているのに「つめ」が甘いんでしょうね。
しかし、それだけではなくて、「知識」は個人が生み出し個人が所有し、オリジナリティを「主張」するには「著作権」を守らなくては・・・・・・・・などという「知の所有」イメージに必要以上に縛られている、というところに一つの原因があるように思います。発言はいったそばから消えていきますので、まあ、思いつきでしゃべることができます。でもMLも含めて文字での発言となると多くの方は「構える」。発言の責任とかオリジナリティとか独創性とか、先行研究とか、諸々のことをかんがえるのでしょうか、慎重になるひとが多いですね。私もそういう考えがないではないですが、MLに書いたことになんらかのオリジナリティがあるとか「所有」に値するとかは思っていません。ほんとうは、MLでも近似的にですが、例会の知的雰囲気は作り出せるのだろうと思いますが、文字化にたいする心理的ハードルがそこに作用してしまいます。
「知識」企業は外に向かっては「著作権」をうるさくいいますが、その会社内では、「個人」の知的所有権などなきがごときです。会社の活動の中で生まれた知識は、そこでの共同作業でうまれたのだから、たとえ明確に個人が出したアイディアや発明でも、それはその個人に属するのではなく会社の「所有」である、という論理でしょう。その論理は知の生産の場の力学からいえば真理に近いでしょう。ところが知的生産は固有名つきだ、という近代の伝統的発想が、物を書くひとにはついて回ります。ですから「研究会」の論文集などはたいてい固有名がつきます。共同研究にしても固有名詞がならんだ論文集になります。これでは企業の知識マネージメントに勝てるはずはないでしょう。
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