戦後民主教育その可能性と不可能性
1987年
北爪道夫
-----未来は、絶対的危険という形でしか先取りされ得ない。それは、構成された正常性とは絶対的に縁を切るものであって、それゆえ、一種の畸型としてしか自身を予告し、現前させることができない。
J・デリダ
1 〈教育論〉のサーモスタット
〈教育〉という思想ほど、自己防御のための装置をまとっている思想はないだろう。〈教育〉ほど多弁でありながら、自らを開示しない制度もまたないだろう。幾重ものサーモスタットの中で〈教育〉は生きながらえてきた。この〈教育〉のしたたかな生命力の老い先のために、そのきらびやかな装置を外してやらなければならない。
政治家や政治家もどきの教育論は論外とすると〈教育論〉は常に”実践”のくさりを安全装置としてきたろう。とりわけ教師の教育論は実践から離れられない。実践をふまえない議論は軽蔑・反感・無視あるいは同類のことだが、御拝聴の対象になるだけである。〈教育〉は実践の言語でうめられてきたと言ってよい。
日教組の教研集会の近ごろはどうか知らないが、かつては、議論が政治や理論に傾いていくと、会場から「子どもの姿が見えないゾ〜」と声がかかってきたという。子どもの姿を抜きにして教育を語ることはできない。子どものあれこれの具体的表情を思い浮かべることのできないイデオロギー論争は、教育を語ることにならない。そういう言語は、教師の教育論の宿命的スタイルになっている。
そんなことはない、理論による展望をもたない「はいまわる経験主義」はすでに克服されてきている、と声がする。理論をもった実践主義にしたところで、実践のくさりを持っていることに違いはないのだ。こうした〈教育論〉の実践との不可分離性は〈教育〉自身の思想を防御する装置であると同時に、〈教育〉そのものの思想的表現であるのだ。
〈教育〉を実践の言語で語ることが、その積み重ねが、やがて教育理論の構築に到ると楽観的に展望していた戦後の思想家の一人に日高六郎がいる。恐らく現在の日高六郎は、そんなところにはいない。1960年前後、日教組の教研活動に思想運動を読みこんでいたころのことだ。日高六郎は、教育理論、政治理論にとどかない、あるいは不信をもった現場の教師が「むずかしいことはわかりませんが、しかし、現場では・・・・・・・・」というスタイルで語る現場の実践主義・実感主義の危険性を指摘して、つぎのように語る。
理論派と実感派との共同作業として、一つ一つの経験や実感をどこまでも尊重し、その経験や実感のなかに理論的な芽を見つけながら、さらにその断片を高次の段階へと結びつける契機を求めていくというような内在的な方法が本筋だと思う。(「具体的経験と理論的抽象----第7次別府集会に参加して」『日高六郎教育論集』1958)
日高六郎は戦後民主教育運動の中に、日本の思想的伝統の病の克服を夢見ていたのだ。「〈体験〉から〈思想〉〈制度〉の次元へと上昇することなしに〈思想〉信仰と〈制度〉信仰から下って民衆の〈体験〉をこぼれおちなく分類整理説明できると考えた」(「戦後日本における個人と社会」1970)日本の知的伝統の病の克服をだ。
しかし、日高六郎は、教師の経験主義・実感主義を読み誤っていた。教師の経験主義・実感主義は決して「理論」の対極などではない。現場の実践と経験は、「理論」の欠如態ないし希薄態などではない。戦後の民主教育が、まさに〈教育〉の言語を実践の言語の中に囲い込んだものなのだ。教師が、子どもに生活綴り方を綴らせる。百姓の仕事はつらい。いくら働いても貧乏だ、等など子どもたちの表情・感動・発見を一つ一つ実践報告に綴っていく実践・実感派の教師の営為はどこからくりだされてくるのか。それは一つの明確な教育論から生み出されている。実践を基礎づけている外部の理論は存在しているにも関わらず、個々の実践の言語がやがて理論を構築するかもしれないが、まだ不定形のままである、という虚構をつくることによって、実践は外部の理論を防御している。”実践”はまさしく〈教育〉という制度のサーモスタットなのだ。
日高六郎じしん、第7次日教組教研の時点での、この実践の外部の理論をみごとに取り出しているではないか。
政治的・社会的な「壁」はどのように高かろうとも、やはりそのなかで教師は、日々くりかえし地味な教育実践に取り組まざるをえないのである。しかし、じつはそのような気長なくりかえしのなかに、その「壁」を少しずつ堀くずす作業が含まれているのではないか、また、その気長な作業は、教師が教室の内外で、子どもたちの幸福と人間的成長を願いながら、日々くりかえしている仕事と矛盾しないのではないか。(同前)
実践主義者としての教師の思想的頽廃は、やせた時代遅れの理論を持っているくせに、あたかも実践のなかで編み上げようとしているかのように、民衆の〈体験〉の次元から教育理論を組みあげようとしているかのようにふるまい、そのことによって、粗雑な姿を鏡に映されることを拒むところにある。教育実践を成立せしめ、実践そのもので語らせている〈教育論〉こそが語られねばならないのであって、実感主義・経験主義に反対する仕立てられたナントカ教育論が問題なのではない。
〈教育〉は自己を明かすことを拒む実践の言語の中で、眠りをむさぼっている。〈教育〉が不可視の制度であり続けているのは、〈教育〉それ自体に自己開示を拒否する装置が備わっているからに他ならない。教師の実践主義に囲われたいびつな言語がそれらの装置を飾っている。
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教育解放研究会(1988年〜2003年)の総括作業のための資料をアップしておきます。
掲載するのは私の書いた文章だけですが、その他の文章で参照希望のある方は、現在の「教育の境界研究会」の事務局までお問い合わせください。
教育の境界研究会 HP http://kyoukaiken.yokochou....Falsekitadume2011-03-02T04:00:01+00:00hot/groups/1bc26/search/index.rss?sort=modifiedDate&kind=all&sortDirection=reverse&excludePages=wiki/welcomelist/groups/1bc26/search/?sort=modifiedDate&kind=all&sortDirection=reverse&excludePages=wiki/welcomeRecent ChangesRecentChangesListUpdates?sort=modifiedDate&kind=all&sortDirection=reverse&excludePages=wiki/welcome0/groups/1bc26/sidebar/RecentChangesListmodifiedDateallRecent ChangesRecentChangesListUpdateswiki/welcomeNo recent changes.reverse5search
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