『白い壁』 2007-08-21
昭和のはじめのころ、東京の下町の尋常小学校。鉄筋コンクリートの校舎が城砦のように聳え立っている。本庄陸男はその下町の小学校の教員経験を、後に『白い壁』(1934年)という小説に書いています。彼が編集長だった『人民文庫』が1938年廃刊に追いやられ、彼は『石狩川』を書いて、1939年には結核で死んでしまいます。

同じ1939年の1月、国分一太郎は南支派遣軍報道班員として中国に軍属として渡り、1940年に『戦地の子供』という本を出版しています。国分は中国広東の子供たちに、「いまだ日本軍の慈愛をしらぬ」重慶の子供たちへむけての「生活綴り方」を書かせ、その本に掲載しています。川村湊は「『戦地の子供』は、国分一太郎の生活綴り方の論理を裏切っている。それは単に転向とか戦争協力といったことだけではない。内発的で、真実の生活を見ようという生活綴り方の精神そのものが損なわれている。あるいは、「生活綴り方」とは結局は現実の社会や政治的なイデオロギーの検閲によって、その自発性を扼殺されるというよりは、自発性や内発性そのものを仮構的に枠取られてしまうものなのだろうか」(『作文の中の大日本帝国』2000 岩波)と「書かせること」にたいする根源的な疑問を投げかけています。
一方、本庄陸男の『白い壁』は検閲による伏せ字にもかかわらず、小学校の「低能児教室」での子供と教師の格闘を丹念に描くことで「教室」が「社会」と地続きであることを描き出しています。
担任の杉本は低能児とされて校長に連れてこられた編入生の知能検査をしているのです。杉本は低能児学級の担任なのです。低能児学級とは今日の養護学級とも違うようです。下記は昭和3年のある小学校の学級編成です。
この「促進学級」には「知能検査」で相当多数の子供が入れられているのがわかります。上記の資料では「ドルトンプランによる大正新教育の実践という土壌の上に様々な成果が昭和初期に花咲いていく」例としてこの学級編成があげられているのです。
寺本晃久によれば、1887(明20)年には45.0%だった就学率が、1900(明33)年には81.5%にまで向上する。そうした就学率の向上を背景に、学業成績の劣る「劣等児」「低能児」が教育問題として明治30~40年代には浮上してくるという。知的障害というより学力が劣っていると学校の中で認定して、その劣等児対策研究が、学校の中でその「個人」を対象に「研究」がすすめられ、それらの子ども達の施設が成立してくるのであって、その逆ではなかったと寺本は言っています。(「「低能」概念の発生と「低能児」施設 ――明治・大正期における――」『年報社会学論集』第14号,2001年6月発行,関東社会学会,pp15-26)
こうした学級編成を「科学的」なものにしていたのが知能検査だったわけです。その科学はじつのところ「学校」とりわけ「教室」という空間の中に囲い込まれた「子供」をクライアントとして誕生した「科学」であり、その子供が家庭や地域の中で生きているということは検査の圏外におかれたのでした。まさに「教室」が知能検査という「科学的方法」を生み出したのでした。
『白い壁』は、そうした近代学校の学級編成の虚構を、自然主義リアリズムという手法で見事にあぶり出していたといえましょう。
生活綴り方は、子どもたちの生活を「教室」でつづらせ、生活の真実に向き合うことを進めていったのですが、このリアリズムを恐れた政府によって弾圧され収束していったという見方がありますが、川村湊はそれに反対します。綴り方教育は文部省によって取り入れられ、「銃後で綴られる慰問文」として引き継がれたのだと。たとえ子ども達が戦死した父の骨を迎えにいくという「暗い」ものであれ、「家族」のあり方がリアルに描かれていれば、「家族」を守るという使命感を兵隊さん達に喚起できたのだという。川村は生活経験主義的な実践の陥穽を指摘しています。
近代の学問、とりわけ医学や心理学などの「成果」が「教室」に直接に入り込み、学級編成や教師の視線を変容させてきました。その意味で近代科学は境界なしに教室に侵入したのです。では「文学」などの芸術はどうだったのでしょうか。近代文学は「教室」にどんな改変をもたらしたのでしょうか。それとも近代文学は「教室」の外にしかなかったのでしょうか。生活綴り方は「文学教育」ではなく「生活指導」や「道徳教育」だったのだとすれば。
写真は下記より
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