大阪府教育委員会の改革病は、とどまるところを知らないといった感じです。生徒に先生の評価をさせるとか、教員の異動を7年から4年に変更するとか、まあどこまでいくのでしょうねー。改革パフォーマンスとその改革をしやすくするための人事行政が上記の改革なのでしょうが、二つとも現場の教師の経験というものにたいする不信感というか、間違った認識にもとづいています。
もっとも現場の経験がどんなものなのか、教育学や社会学がどれだけ明らかにしてきたのか、また教員自身が自分たちの経験の中身をどれだけきちんと把握してきたのか、そこらができてこなかったゆえの現在の惨状でもありますから、あながち改革病者のせいばかりでもないのです。
教員は自分たちの経験を、教育理論や民主主義言説、あるいは汎用の「生徒のために」などという一言理論で説明してきました。そういうツケが回ってきているのではないでしょうか。教育なり学校なりは理論や制度で動いているのである、というまちがった了解は教育行政も現場教員も大なり小なり持っていますが、現場教員が「実践」しているのは、そうした理論や制度に準拠しているだけではないのです。ときには大幅にそうした枠を超えているにも関わらず、理論や制度にのっとって実践していると思い込んでいるのです。つまり経験は、理論や制度に「上昇」していないのです。
退職教員が自分の教育経験を語り出すと、具体的な経験とともにそれを「総括」する言説も語りましょう。その次にはその「総括」から具体的経験を取捨選択して、「余計な」経験は落ちていきましょう。こういう体験を聞いて整理する教育学や社会学の専門家は、複数の聞き書きを寄せ集めて、何らかのまとまった思想や集団的な動向・心性、制度の歴史との関連などを記述しましょう。かくて教員各自の固有の経験がもつ意味は当事者にも研究者にも把握されないまま、アルバムの背後でセピア色に変色していくのです。
教員はなぜ潰しがきかないのか。その経験は他に流用して有効活用できるほどに一般化可能な知識や技能ではないからです。固有の顔をもった生徒と「この私」の共有された時間や空間は、他の場面で「応用」がきくとは限らないのです。下手に一般化して別の生徒に対面すると、とんでもない失敗になることがあるのです。経験のこの個別性に耐えられないので教員はかえって理論や制度に依拠しようとします。ですが自分の家庭生活を理論化して別のところに応用しようという人などいないように、学校をいくら制度化しても、教育をいくら理論化しても、教員はほんとうは自分の経験が「上昇」などできないことを知っているのではないでしょうか。
このことがあまり認識できない人が教育を制度や理論で動かす教育行政マンになり、このことを体験的に感じている人は、遅かれ早かれ「もえつきる」しかないのです。なぜなら経験を救済する理論など「未だ」ないからです。
教育の境界研究会もまた、こうした状況から自由ではありません。経験を制度の枠で動かそうというのとは別ですが、理論志向がすぎると具体的経験を取りのがしてしまいます。昨今の教育改革にあきれ、疲労感を感じている退職前の私たち教員は、その「実感」と、理論のぶつかるところに行き当たらなければならないのですが、そうした問題の中心から遠ざかりたいという心理までもってしまう。つまり私たちの経験はその使用法をふさがれたままなのです。
私たちの定年後にはそういう事態の「総括」というおおきな仕事が待っているのです。
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