『むかし学校は豊かだった』宣伝その1

教育の境界研究会では今年の9月に『むかし学校は豊かだった』という本を出版しています。
事務局の面々は遠慮深い方々のようで、あまり宣伝もされないので、私が勝手にやっておきます。


出版までの間にいろいろ議論があったのですが、私がそこでだした議論を紹介します。

第1回は「昔、モノが学校を作ったが……」

2008.6.7 北爪道夫

1 黒板は学校のモノから遠ざかる

 最近のニュースで、トヨタ自動車の渡辺捷昭社長が、マイクロソフトのプレゼンテーション用ソフト「パワーポイント」について「無駄ではないか」発言した、というのがありました。
http://news.livedoor.com/article/detail/3654822/
 昔から、どうでもいいソフトだなと密かに思っていた私としては、やっぱり、同じように考える人もいるんだなと納得しました。学校現場や教育委員会の研修でも、紙一枚に要領よくまとめたらすむものを、何枚もの「画像」にして、パソコンをつかって大仰にやっているようです。授業でもこれを使って「教育効果」をあげられると信じている人もありましょう。
 企業で導入された「事務機器」が、だいぶおくれて学校に「教育機器」として入ってくるわけですが、これは黒板の「進化」型でしょう。黒板が教室に導入されたのは明治のはじめからですが、ほとんど文字だけしか扱えない黒板─チョークだけではなく、「掛図」も学制とほぼ同時期に学校に導入されています。(佐藤秀夫『教育の文化史3』「掛図の研究・序説」)ビジュアルな資料で授業を効果的にしようという試みは掛図だけでなく、OHPの使用が流行したこともあります。これなどは、模造紙にあらかじめ板書事項をカラフルな説明図で書いておいて授業に使ったり、生徒に発表させる授業などで使われてきました。歴史の授業で大きな写真を提示しながら授業をする方式は、私が提案して「飛鳥」という会社が商品化(「パネル日本史」)し、山川出版がまねをして全国的に普及しましたが、いまやプレゼンソフトの普及であまり売れなくなったと「飛鳥」の社長がこぼしていましたが、これも、教室の生徒全体に提示して授業を進める道具という意味で「黒板」の延長とも言えましょう。
 OHPやテレビ、模造紙による提示、大型写真パネルの欠点は、生徒が、それらを写真にでも撮らないかぎり、それらを記録し、手元に残しておけないことです。「パワーポイント」の場合は、膨大なコピーをあらかじめか、事後に印刷しないと生徒の手元には残りません。
「印刷できるホワイトボード」といわれる「電子黒板」というのは、こうした点を「克服」する最新の「黒板」かもしれませんがまあ、さしあたり教室に導入されることはないでしょう。
http://allabout.co.jp/career/clerk/closeup/CU20061105A/

 このように「黒板」の延長であるモノは、学校特有のモノではすでにありません。塾では黒板でなくてホワイトボードを使うことが多いそうですが、それは「学校ではないぞ」と塾生に自覚させるためだとか。黒板が「学校のモノ」であった時代の記憶を串間努氏は下記のように記録しています。

 私が小学生のころは黒板が木製から、スチールへと切り替わる過渡期であった。そのため、掃除の時間は、担当教室の黒板が板なのか鉄なのかを判別する必要があった。ホントかどうか知らないが、スチール製の黒板を水拭きすると、「サビる」といううわさがあったのだ。だが、スチール製黒板を水で濡らしたぞうきんで拭きあげると実に奇麗になる。白墨の汚れがピカピカに一掃されるのだ。私たちは、その美しさに幻惑され、「いけないんだ~」と女子が注意するのもいとわず、せっせとスチール黒板を見つけては拭きあげるのであった。乾燥も早い。乾いたらすぐに黒板に向かって右側に、今日の日付と、今週の目標、日直当番の名前を白墨で書き込むのが快感であった。それは降り積もった雪が広がる広場に初めて足を踏み入れるときの「一番はじめの汚し」の喜びのようなものだった。
http://www.maboroshi-ch.com/sun/sch_19.htm


 黒板の販売会社では「家庭向け黒板」というのを販売しています。むかし、小さな黒板が家にあった記憶がありませんか? しばらく前のことでしょうが、コルクボードなどが家庭の連絡版など用に販売されていました。しかし、携帯電話の普及は、家を「留守にする」からメモ書きをおいたおいたり、連絡掲示板に「今日遅くなる」などと家人に書き残す必要がなくなりましたから、コルクボードもあまり売れてないでしょう。倉石論文が指摘するように、いまや学校は言うに及ばず、家にさえも「住まう」ことはなくなってきたのです。ですから「住まう」ことからくるモノの物語は生成できなくなってしまったのではないかと思われるのです。串間氏の記憶のなかの「黒板」にかわって、パワーポイントや電子黒板が物語を生み出すとは私には思われません。

2 昔、モノが学校を作った。今、モノが学校を融解する

 「小説の中に描かれる家の様式が変化してゆくにつれ、小説のテーマや様式も変わっていくことがわかる」と、西川祐子が『借家と持ち家の文学史』(1998 三省堂)で書いています。ここで「家」というのは家族のことではなく、建築としての家、借家か持ち家か、ワンルームかといったモノとしての家のことです。西川は、日本の近代文学が「家族」の物語を延々と語り継いできたのを、一つの物語として読み込もうとこの本を書いています。この中で、小説に登場するモノとしての「家」は、小説の素材とか背景とかであるばかりではなく、小説自体を規定し生成をもしてきたのだと言っています。建築としての家、様式としての家は、そこに「住まう」人が作り、住むモノでしょうから、住まう人が家を規定し、小説はそこを「舞台」にするだけだろう、と常識的には考えます。しかし「家の様式」が日本の近代文学の生成や性格そのものに関わっているのだとすれば、学校の「モノ」は、「学校の様式」を規定したのであって、学校制度がモノを選び取って、「教具」として過剰な、あるいはちょうどいい意味をモノに付与してきたのではない、ということになりましょう。学校がモノを「学校のモノ」にしたのではなくて、モノが「学校」を作ってきたのではないのか、と問いを再設定してみる必要がありそうです。
 長野県松本市の山辺学校は「開智学校」のちょうど10年後に開校した学校ですが、その資料館を見に行ったときに、学校に「オルガン」が来たときのことが絵入り資料に残っていたのが印象的でした。村人たちが総出でオルガンを迎えているといった情景が描かれていたと記憶しています。こういう「事件」は、「学校にオルガンが導入された」というふうに理解するよりも、「オルガンが村の学校をつくった」という事柄として理解すべきではないでしょうか。個人の家庭に普及したテレビがようやく学校の教室にも入った、という事態と同一ではないわけです。一台のオルガンは学校ばかりか村社会の変容に関わってもいたわけでしょう。
 私の通学していた前橋高校は、旧制中学が高校になった古い学校でしたが、上履きはなく、土足のままでした。旧制の中学ではまま一足制の学校があるようですが、これは日本の伝統的な家屋の利用形態とは違った「洋風」の様式でしょう。これは上履きというモノを導入しないという形で、「学校をつくった」のです。土足という様式を導入することで、伝統から抜け出る「学校」をつくったとも考えられましょう。このときの「土足」の選択と、今時の学校で二足制にするか一足制にするかという選択とは文化的な意味が違っていましょう。今時の学校のモノは、総じて文化的意味を持たなくなったのです。
 モノを学校の中のモノとして考察するのでは、学校の変容をつかむことはできないでしょう。しかし、視野を学校に限ることをしなければ、モノは学校ばかりか、社会や人間そのものを猛烈なスピードで変革していることが見えてきましょう。これは「学校のモノ語り」というより「社会のモノ語り」の一分肢として「近代学校の変容」、もっといえば「近代学校の社会への融解」のモノ語りを語ることは可能ではないか、といいかえてもいいかもしれません。
 「フィンランドモデルを超えるために」(『現代思想』2008.4)で樫村愛子は、「教育の外の資源や領域、具体的には決定的に重要な文化資源や領域との連接なしに、教育を考えることは不可能だろう」とのべて、教育を自閉的に設定する傾向のあるフィンランドモデルを批判し、イラク戦争や大統領選について熱心に議論するフランスの高校生の方が文化的に豊かだと言っています。受験戦争の厳しい韓国の高校生や中学生は、米国産牛肉輸入反対抗議集会に非常に多く参加しているのをどう考えたらいいのでしょうか(「米国産牛肉輸入反対ろうそくデモ」6割が中高校生…なぜ?」中央日報。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=99602&servcode=400&sectcode=400

 学校や教育の問題は、もはや学校や教育の問題であることを超えてしまっているのです。これを「学校のモノ語り」として「学校」問題の棚の中にしまってはいけません。実のところ、戦後民主教育は多くの問題を抱えていたとはいえ、学校を社会や政治から分離・隔離して考えるという現在の基本的傾向とはだいぶ様相が違っていたのでした。この意識的分離をおこない学校や教育を閉じた領域としてしまったのはいったい誰なのでしょうか? さらに、ベクトルは全く違うとはいえ、戦前の学校も社会や政治から切断などされてはいなかったのです。そういう意味では、現今の学校や教育の思考は歴史的に見れば、ある種、特異な様相を呈しているのではないでしょうか。

3 境界を可視化する

 1959年に佐藤忠男は『思想の科学』に「少年の理想主義について」という文章を発表しています。このなかで、大正の末年から日中戦争にかけて、日本の児童文学の主流を形成していた『少年倶楽部』について、昭和三〇年刊行の『日本児童文学大系』は『少年倶楽部』からの作品を一つも収録せず、『赤い鳥』からや小川未明、坪田譲治らの「童心主義」作品を中心に収録し、『少年倶楽部』については解説でもほぼ無視していることを批判しています。佐藤紅緑や山中峰太郎らの作品がのせらた『少年倶楽部』は、当時講談社に集まっていた地方の小学校教員出身の編集者によって、少年たちの立身出世の願望や理想主義に応えるものとして編集されていたといいます。佐藤忠男はいいます。「そういう低俗な娯楽性にうつつをぬかし、そういう反動的な教化性に魂を奪われる思いをし、小川未明や坪田譲治にはほとんど退屈以外の何者をも感じることができなかった私たちは何者であろうか」。戦後民主教育が一貫して持ち上げてきた生活綴方についても佐藤は次のように批判します。

 児童にリアリズムを体得させるという方向においてのみ推し進めようとする生活綴方の理念も、また、現実には不十分なものではあるまいか。童心主義の誤りは、おとなが自分の隠者的憧憬をそのまま児童に託してしまって、子ども自身が現在直面しているところの、さまざまな不安や苦悩に知らん顔をしているところにあるが、生活綴方的リアリズムもまた、子どもをただ単にけがれなき天使として、おとなの世界の悪を無心にうつし出す鏡としてのみ見ようとする点で、それと表裏一体をなしている。(『大衆文化の原像』岩波 所収)


 教師が教室で教材に使う文学作品は、教師だけがフィルタリングをしているのではなく、文化的社会的にフィルタリングされたモノが教師の手元に届いているのです。だとすれば教室の文化と社会の文化には境界ができることになります。そういう境界が描け機能までしていた時代があったのは確かでしょう。そうした境界線はどのように変容ないし消失しているのでしょうか。私の仮説でいえば、境界はなくなったのではなく、学校を含んだ社会全体がフィルタリングされているのです。ですからこの境界を明示するには、私たちは学校の外、社会の外に脱出しなければ不可能なのです。それを可能にするのは、かつて境界が学校と社会の間にあった時代の考古学ではないでしょうか。『昔、学校は豊だった』を私はそのようにイメージしています。
 この題名の半分は皮肉ではありません。学校という空間に境界を直接に設定するのも「先生」ですが、同時に境界を越えて「社会」を持ち込んでいたのも「先生」です。たとえば下記のような「先生」は、もはや今の時代には生息できなくなっていましょう。

 私は十三歳の時に、中国の尾道と云う町でそこの市立女学校にはいった。受持ちの教師が森要人と云うかなりな年配の人で、私たちには国語を教えてくれた。その頃、四十七、八歳位にはなっていられた方であったが、小さい私たちには大変おじいさんに見えて、安心してものを云うことが出来た。作文の時間になると、手紙や見舞文は書かせないで、何でも、自由なものを書けと云って、森先生は日向ぼっこをして呆んやり眼をつぶっていた。作文の時間がたびかさなって、生徒の書いたものがたまってゆくと、作文の時間の始めにかならず生徒の作品を一、二編ずつ読んでは、その一、二編について批評を加えるのが例になった。(中略)
 森要人先生は、その女学校でもたいした重要なひとでもないらしく、朝礼の時間でも、庭の隅に呆んやり立っていられた。課外に、森先生に漢文をならうのは私一人であったが、ちっとも面倒がらないで、理科室や裁縫室で一時間位ずつ教えを受けた。頭の禿げあがったひとで、組でもおぼろ月夜とあだ名していたが、大変無口で私たちを叱ったことがなかった。
 秋になって性行調査と云うのが全校にあって、毎日一人か二人ずつ受持ちの教師に呼ばれて色々なことをたずねられるのであったが、私たちはまだ一年生で恋人もなければ同性愛もなく、別にとりたてて調べることもないのであったが一人ずつ呼ばれた。私も何人めかに呼ばれて、森先生は呆んやりした何時もの日向ぼっこのしせいで「どんな本を読んでいるか」とたずねた。私は『復活』と『書生かたぎ』と云うのを読んでいると云ったら、すこし早すぎるとそれだけであった。
 森先生は、私たちが二年になると千葉の木更津中学へ転任してゆかれた。めだたないひとだったので誰も悲しまなかった。先生の家族を停車場へおくって行ったのは生徒で私ひとりであった。(林芙美子「私の先生」1935)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/47785_30101.html


 学校や教育のモノを超えて社会のモノを考察するとき、個別のモノの起源や物語の集積ではなにも見えてこないと思います。串間氏的な、あるいは新聞記事的な個別のモノへの詳細な視線だけではなく、それを整理、包括する座標軸が必要になると思います。それは単数である必要はありませんが、多すぎたら訳がわからなくなりましょう。倉石論文が提起する「住まう」という座標軸で、モノを記述してみること、そうした個別の作業の中から私たちが対決しなければならない「課題」が出てくるだろうと思いますし、別の座標軸もまた見えてくるだろうと思います。


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