(2)定年前自己観察

 今年は担当授業の数が極端に少なくて、年度が始まる前は、いろいろできるぞーと、張り切っていたのですが、4月、5月となって、もう7月なのにほとんどこれといったことをやっていないのです。「暇」というのは窪地のようなもので、それができると周囲から水がワーと流れ込んでくるもののようです。生半可な意欲など吹きとんでしまって、結局いつもの年とおなじになって「暇」などどこかに消えてしまいます。
 定年後も同様にして、「今日は、いったい何ができたのかなー」と一日の終わりに思案してもこれといった事が浮かばないまま毎日が通り過ぎていくのではないか。そういうリアルな恐怖を感じてしまいます。何もできないのではないか、という恐怖というより、まあ、それでしょうがないか、と思ってしまう自分の感性を恐れています。それでいいやないか、という円熟の境地に達していないくせに、何もできないのではないかという不安ばかりがせり上がってきます。
 こういうのは、たぶん仕事をしていれば、とりわけ教員というそれなりに世の中のためになっているかもしれないし、生活もできる「しあわせな生活」にどっぷりとつかってしまっているからおきてくる不安なのだろうと思います。教員の仕事ばかりではないでしょうが、心身をまるごと投入しないと仕事にならないと思われている職種では、定年である種の精神的危機に多少なりとも対面することになるだろうと想像しています。この危機の回避の方法のひとつが、定年後も非常勤講師などで、やんわりと別の世界に軟着陸するというのがあるのだろうと思っています。これはなかなか現実的なありかたには違いないでしょう。
 でも、これで別の世界に軟着陸できないときは、徐々に血を抜かれていくようにして知的生活的エネルギーが枯渇していくような気もするのです。とりわけ、団塊定年後教員といいますか、今日の教育状況と経験してきた教育状況との異和を感じている世代にとってはこの血抜き的治療はロボトミーほどの効果を発揮してしまうような不安があります。
 西田幾太郎の還暦のお祝いにあつまった弟子たちが、西田哲学完結の節目というイメージでお祝いを述べると、西田は露骨にいやな顔をした、といいます。竹内良知先生の紹介では「「場所」の思想によって、西田は西田哲学と固有名詞で呼ばれることになった独創的な哲学的立場に到達した。しかし、それはまだ西田哲学の出発点にすぎなかった。彼は『働くものから見るものへ』を出版した翌年、昭和三年(1928)年、定年で京都帝国大学教授の職を退いたが、彼の哲学的活動はまえよりもいっそうめざましく展開された。西田哲学の確立はむしろ停年後になしとげられたのである。」(『西田幾太郎と現代』)とあります。
 こういう天才をもってきて、何考えとるねん、といわれそうです。問題は、こういうことができない普通の人のばあいに、定年後、いかにして知的生活的エネルギーを確保したらいいのか、ということです。これがむつかしい。いかに個人で決意したところで窪地には雑多な水が流れ込んでくるのです。
 いま、できることは毎日の仕事に、自分がどのように占領され、それをどのように自分の喜びやしんどさに変換しながら、制度で保障された知的エネルギーとは別の固有のエネルギーをどこに自分は蓄積できているのか、いないのか。なにを排除したり後回しにしながら生きているか。それを全くの他者が観察したら、どんなばかばかしいことをし、また思ってもいない有意義なことを無自覚のまましているのか、そういう自己観察の視力を持ちたいものだと思っています。定年準備の作業の一つであるだろうとおもっています。

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