戦後民主教育その可能性と不可能性 2〈教育〉という制度

2 〈教育〉という制度

 教えるということに不動の確信を持ち、重大な責任を負ってゆこうとした教師の代表的一人に、林竹二がいた。彼の高名な授業「人間について」の記録を読んでいると、そこに明確な教育論が展開されているのがわかる。
 林竹二は、この授業のはじめに生徒に問いかけている。「カエルの子はカエルであるが、人間の子は人間の子であるか」と。林竹二の用意している答えは、人間の子は学習によってこそ人間となる、ということだ。カエルの子は自然にカエルになるが、人間の子は自己形成的努力によって人間になれるのだ。そこが動物と違うところだ。ここには、学習が人間の形成にとって欠くことのできない営為である、というイデオロギーがある。
 
 かえるがひとりでに泳げるように、それから地上を歩けるように、人間の子はひとりでに2本の足で歩けるようになると思う? ならないね。やっぱりそりゃ学習ですね。勉強して、練習して、猛烈に練習してはじめて2本の足で歩けるようになる。猛烈な訓練をやっている。自己訓練をやっているんです。あたりも全部こう立って2本の足で歩くでしょう。だから子どもだってやっぱり自分も2本の足で歩こうとするわけ。それには大変な練習が必要なの。だからそれは学んで初めてできるようになるんですね。(第4回兵庫解放教育研究大会 公開授業記録 1977年 『解放教育』1978.2)

 〈教育〉という制度をうち立てるには、日常的世界感受の仕方を転倒しなければ不可能だったのである。林竹二の人間観は、人間を教育−学習人間とくくる。人間は教育され、学習しないと人間になることはできない、人間はほっておいたら、猿に育てられたアマラやカマラのよに、4本足で歩くようになってしまうんだ。林竹二は、この授業で人間は学習することによって人間になると言っているが、教育されることによって、とは言ってはいない。社会や家庭の中で生活しているうちに自分で学び取ってゆくことによって人間になるのだと言っている。しかし、林竹二が言っている〈学習〉〈勉強〉〈練習〉は、それをさせる側を語っていないのではない。学習・勉強を可能にする人間の家庭生活・社会生活を〈教育〉の場として抽出してみせているのだ。日常的感覚では、赤ちゃんがいっしょうけんめい二本足で歩こうとする行為を、意識的で苦痛でもあるだろう学習とは考えない。ましてや”猛烈な訓練”だ、などと誰が考えるだろうか。こういう非日常的な”解釈”を導入して、はじめて〈教育〉が制度として人間の中にうち立てられるのだ。
 林竹二は、この〈教育〉を生活世界から抽出するのに、人間社会から切り離された情況のなかにおかれた人間−−−オオカミに育てられた少女−−−との比較という操作を必要としていた。林竹二は慎重に注をつけている。「人間の社会で育つというようなことを抜きにして人間の子は人間というふうにいえるかどうか」と。ほっておいても、赤ちゃんは言葉をしゃべりだし、二本の足で歩くようになるものだという常識的な見方を転倒させるのに、人間をその社会から切り離せば・・・・・という、実験で仮構された抽象を必要としたのだ。そのことによって〈教育〉〈学習〉という世界を生活世界の自然から取り出しているのである。生活世界の中に埋め込まれて、他の諸活動と区別のつかない〈教育−学習〉を、生活世界から分離させ、独立の営為、”猛烈な訓練”として位置づけてしまったのだ。
 人間の生活世界を成立せしめている諸要素を分解して人間に迫ろうとする意志が、〈教育−学習〉人間を一つの映像として仕立てたのである。
 〈教育〉の欠如態としての動物。もし〈教育〉がなかったら人間も動物的存在に堕ちてしまう。そういうイデオロギーを成立させている。悲しみも喜びも、人間は教育としての環境によって身につけることができる。だから林竹二は、アマラとカマラの現実を見る目をうばわれていく。

 そこでやっともうアマラは死んでしまったんだってことを感じたんでしょう。それを感じた時にカマラの目から、両方の目から涙が一粒ずつこぼれてそれっきり。一粒ずつこぼれただけ。しかし、悲しいという表情はないですね。悲しみの表情はない。しかし悲しんでいることは確かですね。20日の間なんにも食べない。そして、アマラを探して床を、こう、かぎまわっている。最初の一日は水も飲まなかったそうです。水も飲まない。何も食べないでアマラを探し求めていたんですね。それでどうしてもアマラはもう姿が見えない。だからたった一人の仲間がいなくなってしまったことを確認せざるをえないわけです。

 まだ動物的状態にあるカマラからは、前教育的証拠を抽出しなければならない。仲間の死んだ悲しみさえ、教育されていないカマラは持てないんだ、と。そういうイデオロギーが、林竹二に「涙が一粒ずつこぼれてそれっきり」「一粒ずつこぼれただけ」「悲しみの表情はない」と言わせている。〈教育〉という制度を仮構しないで見るならば、20日間何も食べないことがどんな大きな悲しみの表現であるか、わかりきった話なのだが、悲しみの感情でさえ、〈教育〉としての人間的環境が必要だとしゃべりたいために、こうした混乱した表現になってしまったのだ。
 人間は愚かさの中に生まれたが、学習によって自己訓練によって、裏がえせば、それを助ける教育によってこそ人間になるのだ。そういう〈教育〉を見えない制度として人間の生活世界にうち立てる。動物的自然状態からの脱出を人間ははからなければならない。〈教育〉を欠如された状態がいかにおそるべきものか。あなたはどれだけ人間ですか。人間へ向かって自己訓練をやっていますか、という脅迫にも似た〈教育〉イデオロギーが成立する。もちろん、ここで林竹二が出しているのは学校教育のことではない。今の学校教育が、いかに子どもの学習を破壊しているかを林竹二は強調する。林竹二が言っているのは、人間の生活世界は、教育−学習の世界なんだ、人間の人間となる根拠は、そうした教育−学習の世界のなかにあるのだ、と言っている。
 人間の生活世界というものを教育世界に編成していく思想的営為は、実は、林竹二個人の特性ばかりではなく、戦後民主教育の最も深い構造に根ざしていることなのであった。人間の営為全体を教育的世界としてとらえなおすことが、全面的に展開されてきたのが戦後教育においてであっただろう。いいかえれば、〈教育〉が我々の日常のすみずみ、24時間をとりしきり得、それが人間の生にとって積極的意味を持っているのだという〈教育〉への意志が、拡大、肥大、浸透していく過程が、戦後教育史の通奏低音なのだと言えるだろう。

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