3 生活世界の〈教育〉化への意志
たとえば「教育勅語」に、”臣民”の生活全体を〈教育〉化する意志がうかがえるだろうか。戦前の国語教科書に載せられた、さまざまな軍国主義的〈美談〉に、人々の生活の隅々を組織しようとする意識があったのだろうか。勅語の世界に臣民を引き入れること。〈美談〉の世界に子どもたちを生きさせること。そういう意志を強烈に持ってはいたが、人々の生活世界を根こそぎ〈教育〉化しようとする野望をもつことはなかった。特攻隊員を養成することはできたが、終戦とともに人々は生活の方へ帰っていったのである。
もちろん、西欧世界において、社会生活への手ほどきとも、一定の職業や役割への準備教育とも違って、古典の教養による普遍的な人間の形成という観念──〈教育〉という観念は18世紀に成立していた(アリエス『〈教育〉の誕生』など)。日本における近代学校制度の導入であった1872年の学制の理念に、こうした西欧教育理念の型を見ることは、一応できるだろう。
この「被仰出書」が出されたとき、生活のためには学問というものが必要なんですよ、という説教を、どれだけの人々が納得しただろうか。百姓に学問はいらない!と一喝して、進学を希望する成績優秀な息子の前途を妨害した父親の物語は数え切れないほどだろう。この物語を父親のほうから読めばいいのだ。この物語を、学に志す青年の前に立ちはだかる封建遺制としかよめなかった戦後教育は、この「被仰出書」が個人の生活を成立させる基礎としての「学」の位置づけが、やがて教育勅語に象徴される国家のための教育に吸収され消滅していく過程を戦前の教育史として描き出す。したがって、近代日本教育史の常識は、国家による教育統制、国家の手による教育が、「学制」の個人主義的教育観から転換し、1886(明治16)年の森有礼の「学校令」によって国家のための人材育成として本格的に展開されはじめ、1945年に崩壊する、というものである。また、戦後は学校教育制度および教育内容の民主化過程が、国家による教育という根深い発想に対抗しながら、国民の教育権として定着をしていく、というふうに描き出されてくる。
こうした教育史の通説には、明治国家が移植・組織した近代学校制度が、〈教育〉をどのように人々の生活世界に持ち込み、生活世界を、どのように変容させていくものであったかを見抜く視点が欠如していた。それは、国家による教育組織化、公教育制度の国家統制にひきつけられるあまり、これを批判する側も、それへの対抗として自らの理念を描くという制約に無自覚だったからである。図式化していえば、戦前の近代学校から、国家によるその教育統制・教育内容の統制を引き算して、そこに「民主主義」「平和」を足し算すれば、日本の教育そして社会は平和な民主主義社会になるという発想である。本来、善である教育を国家が自己利益のために独占し利用したのは誤りであるが、〈教育〉〈近代学校〉そのものは〈善〉であるという発想を疑うことを知らなかったのである。だから、戦後教育の思想が自ら強力に育んでいった生活世界の〈教育〉的編成に深く気づくことはなかったし、それが戦前と戦後をわける大きな変容だとも気づいてこなかった。
現代のわれわれの生活世界は広く深く〈教育〉に囲い込まれてしまっている。クーラーをインプットされた生活からクーラーを除くことがむつかしい、というより考えられなくなっているように、われわれの生活から〈教育〉というプラグを抜くことは考えることすらできなくなっている。こうした生活世界の〈教育〉化への傾斜は、基本的には戦前の国家による教育には見られなかったことである。
戦前の国家主義教育においては、生活世界を〈教育〉化することが国家権力の主たる戦略目標ではなかった。子どもたちを様々な生活現実から引き離し、学校に囲い込み、天皇制国家の価値観を注入することがめざされているのである。天皇制国家の価値を人々が生活の中に引き受けるために、「天皇のために戦う」を「親のため」「隣人のため」「友人のため」と置き換える努力をしたとしても、それは天皇制国家の教育がその構造のなかに、生活を〈教育〉によって隅々まで組織する力を持っていたのではない。人々は、何の注釈もなく提示され強制された価値に、誠実に生活の方から接近せざるをえなかっただけなのだ。生活現実の様々なありようの隅々まで〈教育〉として把握しなおすことを通して、権力の意志を実現しようという周到さを見ることはできない。
もちろん、国家権力の意志とは別に、近代学校制度の成立は、生活世界のなかで価値とされてきた伝統的生活知とは別のところに、学的大系の末端としての学校知を子どものなかに打ち立てることによって、生活世界から子どもたちを引き離しはした。しかし、生活世界は、親、地域社会の確からしさ、手触りのある直接感受の世界として、学校知とは別のところで確固として存在し続けていた。学校知は生活世界の知を絞殺などできはしなかったのだ。国家は、生活世界の”本音”を〈教育〉でからめて”たてまえ”に合一させる力を持ってはいなかった。
天皇制国家の物語に、心身を占領された体験から、天皇制国家の教育を過大評価してはならない。近代学校そのものが持つ魔性を国家権力による教育統制のこわさと読み替えてはならない。だが、戦後民主教育は、この国家権力の教育統制の過大評価と、近代学校=教育の価値の神聖領域への囲い込みという錯誤から出発したのだった。
生活世界を〈教育〉化しようという明確な意志が成立するのは、戦後民主教育の空間においてである。
戦後思想の出発点は、15年戦争に国民を同伴させた内的要因として、国民の生活にのこっている封建的因習、〈天皇〉に依拠して個の責任を消去する無責任大系を生み出す近代的自我の欠如、等などを明るみにだすことであった。天皇制ファシズムの野蛮・暴力の克服のためには、近代の合理主義精神・理性主義・科学的精神の徹底が必要とされる、というのが戦後思想の共通認識であった。ここでは、西欧の知性が、第2次世界大戦の終末に、近代的理性・科学がつくりあげてきたものによって、ほかならぬ人間の死がセットされてしまったと予感していたもの(サルトル「大戦の終末」1954『シチュアシオン』Ⅱ)とは逆のベクトルの磁場が形成されていた。
戦後のこうした近代啓蒙主義の磁場が、戦後民主教育の決定的枠付けを行い、戦後思想の変容にもかかわらず戦後民主教育は、その後も基本的に一貫して近代啓蒙主義思想の枠から出ようとせず、岩屋の肥ったサンショウウオのごとき悲劇を自演することになってしまった。
戦後民主教育は「平和」「民主主義」の価値を、国家主義の価値に代えて、子どもたちにインドクトリネートするという水準にとどまるものではなかった。「平和」「民主主義」の注入教育ではなく、子どもが自主的・自覚的にそうした価値を創造・発見してゆく道筋をつける援助として、戦後教育は自己規定してきた。そうすると、戦後教育は子どもの自発性・自主性の発生の場の組織者とならねばならない。子どもたちを囲む社会・家庭・大人、そうした生活の全領域を〈教育〉の場に引き出す必然性をかかえもっていくことになる。生活世界の全領域を〈教育〉化する意志は、戦後の近代啓蒙主義の顔に他ならないことを、たとえば清水幾太郎の『今日の教育』(1947)はよく示してくれている。
ここで清水は、戦後の教育改革に大きな影響を与えたアメリカの教育思想を批判しながら、「教育の社会的分散」ということを提起している。アメリカの教育思想は、環境を変えることによって人間をいくらでも変えることができると考える。つまり、環境を変える政治は、人間を変えることで環境を改造する教育なかに解消してしまうとアメリカの教育思想は考える。しかし清水によれば、こうしたアメリカの教育思想のオプティミズムは、アメリカではすでに民主主義が確立していることからくるのであって、民主主義の伝統ができていないばかりか、野蛮な支配の伝統に人々が引っ張られがちな日本にはこのオプティミズムは通用しないと言う。教育とは別に政治に力を入れなければならない日本の現状を確認した上で、清水は、教育に関して、その「社会的分散」を主張する。
近代的人間の形成という戦後思想の設定した課題そのものが、〈教育〉を生活世界におろしていくことにつながっていた。近代的人間という普遍的価値を社会諸集団の中に樹立するためには「人間的過程への積極的干渉としての教育」が必要だということである。いいかえれば、戦後の「民主化」は人々の生活世界の中に〈教育〉という制度を打ち立てることによって実現していくのだと清水は主張しているのである。
清水幾太郎は、アメリカの教育思想があまりにも社会変革の力を教育に見すぎるのを批判しながらも、教育を通して民主主義社会を形成しうるという教育の可能性を受けついだ。人間は教育によってどのようにも変えることができるのだという操作主義的人間観をも受けつぐことによって、人間の生活世界をまるごと〈教育〉として編成可能であり、それが民主化のために大切、必要なことと主張しているのである。
戦後40年の過程のはじめに、この清水の主張を置いてみると、清水の主張は、みごとに、あるいは清水の主張をはるかに超えて、「教育の社会的分散」は実現している。生活世界が、みごとに〈教育〉として編成替えされてしまった。企業の社員研修、企業の消費者教育から○○スクールにいたるまで、すべて〈教育〉的視点を軸にしている。そのうち夫婦も〈教育〉的関係だとして、夫婦生活学校ができるだろう。しかるに、「民主化」は実現したか?
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